(死に関する随想 5)善人は早死にす

あっけなく人は亡くなるんだ。

伊豆の海は青く温かかった。
ライトブルーの美しい南の海をたくさん経験した今なら、何の感慨もなく、どうってこともない海と思うであろう。が、当時は衝撃だった。
北海道の荒々しい暗い様相の海しか知らなかった。
小学校低学年のとき、近所のガキ共でよく行った釧路の太平洋。旭川から、年に1度くらい海水浴に行った増毛の日本海。姉の家に遊びに行ったとき見た網走のオホーツク海。
皆、夏の海と言えども、冷たく暗かった。どこか人を寄せつけない、厳しさを漂わせていた。

大学に入った年の夏、大学のクラスの仲間と伊豆の戸田の海に海水浴に行くことになった。
サークルは山歩きの会に属していたが、その合宿の後だった。
確か、2泊3日だったと思う。
まだ受験が終わったばかりのようなもので、海の遊び方がわからず、浜辺でゴロゴロして漫然と太陽を浴びたり、岩場を散策したりしただけで、何もしなかったような気がする。
しかし、そこは若者。短い時間ですっかり打ち解け、仲良くなっていた。
これが海とのつきあいの始まりだった。
篠田と野呂。
社交的でリーダーシップのある野呂。その誘いかけに、物静かな篠田と田舎者で関東の地理のよくわからない私が乗った形となった。
私以外の二人は都立高校の出身だった。

3人で撮った写真が一枚残っている。
まだほっそりとした体型でにこやかに笑ってはいるが、足には普通のスリッパをつっかっけ、首にタオルをかけたり、頭にまいたりして、野暮ったいこと限りなし。湘南ボーイとは雲泥の差。私は田舎者だから仕方がないが、東京の二人もそうなのである。
なんとも海水浴とかレジャーとかいう言葉などとは縁遠い雰囲気。穏やかな海とは似合わず場違いな感じがする。女の子をナンパするなどという意識もなかった。たとえあったとしても、そっぽを向かれたろうが。

旭川へ帰って家で楽しい夏を過ごした。

夏休みも終わり、2学期の最初の授業だった。野呂がただならぬ興奮した表情で近づいてきた。
「篠田が死んだ。俺、葬式に出てきた」
「えっ」絶句した。
心臓の疾患であっという間に急逝したそうだ。
そんなことがあっていいのか。戸田で未来を語り合ったじゃないか。短いながらも楽しい時間を共有したではないか。
嘘だろう。人間ってなんてあっけないんだ。
心が真っ白になった。
珍しくその日一日は熱心に授業に集中した。心の空白を埋めたかったし、そうしないとなんだか篠田に悪いような気もしたのだ。
前から病気をかかえていたのかどうか、野呂もわからないとのこと。
とにかく、亡くなったのだ。認めたくない事実だった。
当然ながら、その後、篠田の姿を見ることはなかった。
功利的な学生達は薄情だ。篠田のことが話題になったのは、2,3日だけ。いつのまにか、皆、彼がいたという事実をすっかり忘れていた。私ももちろん同じだった。

篠田はナイスガイだった。
死んでしまったからそう思ったのかもしれないが、自己主張の強い、抜け目のない学友が多い中で、いつも控えめにニコニコ笑っていた。一緒にいると癒される気がした。試験前、私のサボった授業のノートを嫌な顔一つ見せず貸してくれた。ちょっとかげの薄い存在だった。篠田は自分の運命を感じとっていたのかなあ。
生きていたら、私よりもはるかに世の中の役に立つことをしただろう。
神様も気まぐれだ。
人生、これからだというとき、前途有望な若者の命を奪ってしまう。
いい加減な俺なんかを残して・・・とその時、少し思った。
この歳になると、素直に神様に感謝する。身体が不自由になったが、篠田に比べると文句なんか言えない。喜びも悲しみも良いことも悪いことも数知れず経験することができたものなあ。


「善人は早死にする」とか「天才は夭折する」とか言う。
逆じゃないのかな。早死にしたから、善い人に見えるんじゃないかな。夭折したから、天才に思っちゃうんじゃないかな。そういう言葉には、生き残った者の傲慢さと優越感が内在しているような気がするのは私だけか。
長生きした者が勝ちなのか。
理性的に考えれば、人生は長さではなく、いかに生きたか、密度だ。
でも、篠田の短い人生を思うと、そんなの屁理屈に過ぎない。

宇宙悠久の時間からみれば、人の一生なんて、一瞬も一瞬さ。
どんなに立派に生きたからといっても、篠田を忘れたようにやがては皆
忘れ去られてしまう。
我思う、故に我あり。デカルトの言葉だったっけ。
認識している己が死んでしまったら、すべてが無に帰するのか。それなら、冷酷な殺人者の人生も、生涯、人のために尽くしたヒューマニストの人生も、死ねば、まったく差はないということか。何か寂しい。というより、暗澹たる思いにとらわれて生きるって何なんだと考えてしまうよな。

人間らしく生きるには、神の存在が必要みたいだ。
「困った時の神頼み」という言葉。
普通は、人間、進退きわまったとき神様にすがりついて急場をしのぐというような、打算的なニュアンスでは使われる。
でも、私は、違った意味で理解している。
人間、歳を取ったり、絶望したりして、生きる意味を見失うときがある。そういったとき生きる意味を与えてくれ、方向を指し示してくださるのが神じゃないのかな。神頼みって、魂の救済というか、生きる意味の再構築とか、もっと高い意味で考えたい。

もう、少々死期が早まってもいい。
私は善人で死ぬことを切望する。

「惜しい人を亡くした」と、皆、言ってくれるかな。
上っ面だけの言葉でもいいさ。ハハハ。
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by tsado4 | 2005-10-23 15:06 | 死に関する随想