日頃それとなく感じている思いをそこはかとなく書きつくる雑記帳というか、駄文集というか、落書き帳というか・・・


by tsado4
(出版社) 集英社 1995円 
(お薦め度)*****

文京区の水道端図書館から久し振りに一冊のフィクションを借りた。
舞台がフィリピン・セブ島の農村と聞いていたので、長い間読みたいと思っていた本である。
2000年の直木賞受賞作。
その頃、株のネット取引に入れ込んでいて、ほとんど本を読まなかった。そして、2002年春、脳卒中で倒れ、読書どころではなくなり、そのまま読まずじまいになっていた。

最近、活字が読むのが相当につらい。1時間も読み続けると、目がかすんでくる。それで、1週間くらいかけてじっくり読むつもりでいた。
それなのに、読み始めるとやめられなくなり、2日間で読み切ってしまった。

面白い。文句なく面白い。
船戸の作品は、以前、イランのクルド族独立運動を扱った「砂のクロニクル」を面白く読んでいた。ある程度は期待はしていた。が、予想以上だった。
私が薦める5冊の本というアンケートがあれば、是非入れたいものだ。

船戸は卓越したストーリーテーラーだ。
アクション、純愛、暴力、ギャンブル、セックス、背徳と倒錯・・・
殺人を楽しむ異常性格、男色、父子相姦。この辺になると、ちょっと、サービスし過ぎかもだね。
人間の持つ理性と狂気を次から次へと描きだしてくる。
なんという引き出しの多さ。
満腹するのにそんなに時間がかからない。が、次の場面では、涙ぐんでしまう。
なんという転換の速さ。
私のようにフィリピンに興味を持っていない者にとっても、最高のエンターテイメントだ。
ジジイになって涙腺が少し弱っているとはいえ、三度も泣いてしまった。

船戸の物語はハードボイルドな冒険小説というのが一般的認識だ。
が、私はこの本を極上のラブストーリーと位置づける。
4つのラブストーリーが交錯して複雑な構成になっている。
悲劇で終わる恋あり、瑞々しい青い恋あり、憎しみと愛は表裏一体と感じさせる恋あり、偲ぶ恋ありだ。
後半部分の謎解きは、想定外。あっそう来たかという感じであった。
ネタ晴らしはしないが、キーワードは血の繋がり。

船戸の文章は、こなれていて読みやすい。リズムとハーモニーが感じられる。職人芸だねえ。
セブの農村部の美しい自然描写、バランガイに生きている人々の人物描写、喧騒と昂揚の闘鶏場の臨場感に満ちた描写などなど・・・
ポルノ小説まがいのセックスシーンの描写にしても、抵抗なく入ってくる。嫌らしさを感じさせない。むしろ美しい。筆力があるからなんだろうな。圧巻はラストシーンかな。

ラブストーリーと冒険活劇をを楽しめるだけじゃない。
この本は、優れたフィリピン農村ガイドブックでもある。
フィリピンの行政単位、バランガイとはどういうものか、そしてそこに住む農民はどのような生活をしているか、知識としてではなく感覚として伝わってくる。
さらにその上、分かり易い闘鶏入門書なのである。
この本を読むだけで闘鶏、軍鶏についての基礎知識が身に付く。
残酷だし、ギャンブルに興味がないって。
まあ、そう言わず、読んでごらんよ。
競輪、競馬よりも、このギャンブル、高尚で、哲学的で、かつ、人間的だぜい。

船戸は、誇張はあるものの、フィリピン社会の負の部分を容赦なく明るみに出していく。
賄賂の横行する腐敗したバランガイ選挙、強い者への媚、へつらい。弱い者へのいじめ、村八分。
社会の底辺で生きる、貧しい人間達の愚劣さ、醜悪さ、卑屈さ、そのどうしようもない生き様を鋭い筆致でえぐり出す。
と同時に世俗的権威を痛快にこき下ろし否定する。
収賄と無法の警察組織、愛と弱者救済を忘れた教会組織・・・
だが、弱者に向けた作者の視線は、基本的には優しく暖かい。
短所の裏には長所があることを作者は重々承知している。

船戸の作品は、現実に打ちのめされ傷ついた人間に勇気と癒しを与えてくれる。
若い頃の情熱と理想、ずっと持ち続けることは難しい。
人はやがてそれを忘れ、裏切り、ボロボロになっていく。
人間が丸くなった、世間がわかってきたなんて言われてね。
ホセ・マンガハスは人里離れた「虹の谷」を根拠地に、孤高のNPAとして、たった一人で戦い続ける。
それできるのは、誇り(ダカン)と希望(アサム)を失っていないから。
虹の谷はもちろんフィクションの中の架空の場所である。
でも、作者は意図していないかもしれないが、私はこう考えてしまう。
「虹の谷」はその気になりさえすれば、誰もが心の中に保持することのできるの夢と理想の保管庫。
多忙と数々の欲望の誘惑に溺れそうなとき、逃げ込むシェルター。
多くの人は、人によって違うが、若い頃の夢、理想を捨てがたい。いつかは実現したいと願がっている。
「虹の谷」はその大切な何かをこわさずに守る心の核というか、思い出したときに出撃できる心の奥深くに存在する根拠地みたいなもの。

誰もが心の中に「虹の谷」を構築し、誇りと希望を失ってさえいなけれれば、戦い続けることができるのさ。
ホセ・マンガハスのように。

船戸ワールドは、無常観と滅びの美学に裏打ちされている。
若い頃は、ハッピーエンドでなければ、心が落ち着かなかった。
でも、幸福なんて実体のないもので、しっかり手元におこうとすればするほど、するりと逃げてしまう虚像に近いものなんだと知ってしまった今は、逆にハッピーなエンディングは、嘘っぽくしらけてしまう。なんだか忘れ物をしたような・・・

船戸の物語のエピローグは、巨悪に抵抗し勝てなくても屈服しない主人公の感動的な死を描いていることが多い。
悲劇的な報われぬ死で終わる。
山田風太郎によれば、
 人生は無意味である。
 その無意味な人生をなんとか生き続けていくのが、人間のプライドなのだ。
 人生でただ一つ、意味があるものあるとしたら、それは死である。
のだそうだ。
最近になって、この意味がわかり始めた。
死というものがあって始めて生というものが存在するんだ。
船戸は感動的な死でストーリーを閉じることによって、輝かしい生のあったことを際立たせているのかな。
キリスト教では、意味のない人生はないと教える。どんな人の人生も神の賜物。それぞれが比類ないマスターーピース。
だが、待てよ。
無意味ととらえるも、意味があるととらえるも、同じことを言っているんだ。
人の命の重さは皆同じである。冷酷な殺人者のそれも清貧の聖者のそれも変わりない。

「虹の谷の五月」は、船戸の作品としては珍しく、未来を感じさせる明るい終わり方をしている。
トシオとメグとジミーは、まだ生き残っている。新しい展開を期待させる。

不正に立ち向かうDNAを有するトシオ青年を待ち受けるものは?
クイーンの養女として横浜で生きるメグはどう生きるのか?
貧しき人のための裸足の医者を目指すジミーは願いを成就できるのか?

作者は続編を用意しているような気がする。
日比両国を舞台にした、さらなる活劇とラブストーリー。
願わくば、私が生きているうちに書いてくれよ。船戸さん。
楽しみにしているけん。
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# by tsado4 | 2006-03-06 09:19 | フィリピン関係の本の書評
物静かなカップルだった。
新宿歌舞伎町にあった「ジャズ・ヴィレッジ」というお店で知り合った。
当時、私はそのお店の常連で、日本酒の一升瓶を片手に、結構でかい顔をして飲みまくっていた。酒をかっくらった勢いで、お店の中を我が物顔で移動して、誰彼となく話し込んでいた。

モダン・ジャズと一升瓶。
変なお店だろう。
時代時代に、ちょっと危険の匂いのある、社会の常識に反抗的な変わった人間達が集まるお店があるものだ。ジャズヴィレ(そう私達は呼んでいた)は、1960年代後半のそれだった。ある意味で、時代の風潮の最先端を行っていた。
多分自分一人では行けなかったのだと思うが、同じ大学のクラスメートの香山君という東京杉並区出身の、流行に敏感な友人に面白い店があると連れて行かれた。新宿などほとんど知らなかった田舎者の私は、ミイラ採りがミイラになった状況で、そのまま、そのお店に入り浸った。

もう昔のことなので記憶は定かではなく漢字もわからないが、確かトガリさんという名だった。
話しているうちに京王線の幡ヶ谷の同じ公団住宅に住んでいることがわかり、仲良くなった。旦那は歳よりも落ち着いた人で、奥さんは美人ではないが、感じの良い愛くるしい人だった。どちらかが、大学院生だったと記憶している。
私は2階に住んでいたが、5階のトガリさんの部屋によく遊びにいくようになった。
そのうち、暗い顔で、新宿クリスマスツリー爆弾事件で公安に事情聴収を受けたと話された。ああ、どこかのセクトの人なんだと思い、彼らから距離を取るようになった。

しばらくたったある日のお昼頃、公団の入り口から通りに通じる道で、奥さんと出くわし、挨拶を交わした。
いつも通り、いや、いつも以上に、にこやかな笑顔だった。
ところが、翌日、同じ道で旦那の方に出会った。
「うちのが昨日自殺した」とやはり落ち着いた口調で聞かされた。
驚愕した。
死んだ時間を聞くと、私と出会ってから、そんなに時をおかずに自殺したらしい。
死にゆく人は、重苦しい深刻な顔をしているものだという先入観が見事に打ち砕かれた。

彼女にどんな事情があったかわからない。
爆弾事件に関わりがあったのかとか、いろいろ推測はしたものの、時とともにすっかり忘れてしまった。
だが、時間の経過を超越して忘れないものがある。
彼女のあの日のあの笑顔。
にこやかで平安に満ちた笑顔。
永久(とわ)の微笑み。
今でも、時々、思い出す。

時には、死は解放であり平安なのだ。
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# by tsado4 | 2005-10-27 18:48 | 死に関する随想
2003年6月、母の納骨のため、父と兄の眠る富山に、姉妹と総勢5人で来ていた。雨の富山は静かに落ち着いていた。久し振りの地方都市。故郷旭川を思い出し懐かしい気持ちになった。

小雨そぼ降る墓地で、納骨の式がとりおこなわれた。
坊さん、早く帰りたがっているのがありあり。経もおざなり。
母との別れをしみじみとした気持ちで終えたかったのに、腹立たしかった。坊主もやはり葬儀産業の一員か。
気を取り直し、ビニール傘を閉じ墓前で静かに手を合わせる。母を思い出す。わびる。悲しみが湧き上がる。
小雨は降り続ける。
静かに時間が経過する。
この知らない土地で、母は亡くなったのだと実感した。
非日常的で厳粛な感覚になっていた。
これが欲しかったんだ。
母、いや、母さんとの別れをはじめて済ませた気がした。

母は、四月下旬、97歳で亡くなった。
葬儀は、渋谷区西原の斎場で行われた。普段は、私に指図する姉達なのに、こういうときは、急に保守的になり、喪主は男である私を指名した。いろいろな折衝や雑多な事務はすべて姉達にまかせ、私は、びっこひいた、お飾りの喪主となった。
今や、葬儀は、システム化、ビジネス化され、流れるように、遺族の手をほとんどわずらわすことなく進行していく。遺体の1週間の冷凍保存、お通夜、火葬、お葬式等、すべて一つの斎場の敷地内でおこなわれる。営業マン、セールス・レディ化した葬儀屋の愛想の良い態度、時間に正確に淡々と進む式、事務的な読経。まったく、滞りない。葬式は結局、生きている人間の都合でやるもの。忙しい現代人には産業化、合理化された葬儀が必要となっているのだろう。

「お母様、石原裕次郎を焼いた窯で焼くんですよ」と葬儀屋のセールス・トーク。
「裕ちゃんファンだった母も、さぞ歓ぶことでしょう」なんて、心にもないことを答えていた。むなしかった。

しかし、何か、変だ。
親族が集まって、亡き骸と共に一夜を過ごし、死者を語り、悲しみに沈んで死者を送る、あの厳粛で非日常的な感覚や空間は、どこに行ってしまったのだろう。
兄は下北沢で不慮の事故で死んだ。その通夜に、私達家族は、死者を淋しがらせないようにと、ろうそくが消えないように寝ずの番をした。深夜、一人で、棺のふたをずらし、兄との最後の別れをしていた。そのとき、次々と幼き日の兄との思い出がよみがえり、私は慟哭した。
40年くらい前のことなのに、つい最近の出来事のような気がする。

母の葬儀で唯一、お葬式らしさを感じたのは、窯に入れる前、母の遺体と最期の対面をしたときだった。病院で遺体とは対面していなかった。
まだ若かったときの母、優しかった母、甘かった母。ちょっとおちゃらけだった母。フラッシュバックとなって、次々、よみがえる。
「母さん、ゴメン。心配ばかりかけて、何も親孝行できなかったね」
とめどなく涙があふれていた。
父のときは、少しも涙がでなかったのに。
感傷的になり、人間らしい気持ちが残っていた自分が心地よく、涙を拭いもせず流れるままにしていた。
が、こちらの気持ちと関係なく、無機質的に式は進行していく。

小学校低学年の頃、北海道釧路に住んでいた。あの頃、夕暮れになると、なんとも言えぬ嫌な、物悲しい匂いがよく街を漂った。火葬場で人を焼いた匂いだと教えてもらった。まだ、焼却炉も不完全だったのだろう。私の鼻孔の奥底に、死の匂いとして、ノスタルジーとなってまだ残っている。
現代人は死を考える契機を失いつつあるというか、死を考えまい考えまいとしている。死を思い起こさせるあらゆるものを抹殺しようとしている。
死を考えることは、生を、命を、真剣に考えることでもあるのに。

脳卒中で倒れたことに加え、父と母の両方をを亡くしたことになり、自分の死をはっきりと射程に入れなければならなくなった。
死を考えること、死を意識することは、残された日々をどう生きるかにつながる。日々の生活に緊張がもたらされる。
憎悪とか嫉妬とか復讐とかいった、負の感情を持たなくなる。
そんなもの、死と比べれば、取るにたらぬものだものな。

現代人よ、死を恐れるな! 
死ともっと仲良くなって向かい合ってごらん!

教育の中に死を取り込む必要もあるな。
性教育があるなら、死教育というものがあってもおかしくない。
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# by tsado4 | 2005-10-26 11:53 | 死に関する随想
君は死神って信じるか。
フフンと鼻で笑ったな。まあ、聞いてくれ。

工学部の冶金学科と言うところの学生だった。
冶金学科、今は金属工学科とい言っている。
真面目な学生ではなかった。というより、冶金の勉強など、まったくする気がなかった。興味がなかった。
数学や物理化学の成績は良かったし工学部は就職率が良いという現実的な理由、ただそれだけで、工学部に入ってしまった。が、完全に自分の嗜好、関心というものを見誤っていた。
田舎の高校に通っていて悔やんだことは、まともな進学指導がなかったというただ一点だった。
とにかく、冶金学科の授業、実習など、単位が取れると踏んだ限りは、できるだけサボっていた。

いつものように午前の授業をサボっていた私は、午後からの授業に出るため、お昼早々と教室に入った。
誰もまだ来ていなかった。
気がつくと、ゴーゴーとすごいイビキのような音が聞こえる。
近寄ってみると、掃除のおばあさんが、並んだ椅子の上にに仰向けに寝ていた。
ただごとならぬ気配。抱き起こすと白目を向いていた。悪い予感が心をよぎった。あわてふためいて、近くの図書室の職員を呼び、事務室に連絡してもらった。授業が始まるときは教室の廊下の外に寝かされていた。終わったときには顔に白い布がかぶされていた。
予感的中。
始めて、死にゆく人に立ち合ったという異常な感覚で、しばらく、興奮していたようだ。

それでも、いつものように、大学の前の雀荘へ、いつもの仲間と一緒に繰り出した。
麻雀は強かった。イカサマ師以外にはほとんど負けなかった。正規の腕なら絶対負けないと過信しマージャンのプロになろうかなどと愚かなことを考えたりもした。
小賢しい奴の多い大学。皆、仲間はそれ相応に強かった。

でも、この日は違った。
つきにつきまくった。何をしてもうまくいった。
大勝する私にあきれて
「お前には死神がついている」と言い残して、皆、早々に立ち去った。
そうか、俺には死神がついていたのかと思わずニヤリとしてしまった。死神はギャンブルの神様を兼ねることもあるのか。
もう一度、ニヤリとした。

人生はあざなえる縄の如し。
幸と不幸は交互に訪れる。
死神なんか持ち出さなくとも、飛び切りの不幸を体験した後には、飛び切りの幸運が訪れるものさ。
無理やり、納得した。

今の私なら、死神説の方を絶対取るのになあ。
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# by tsado4 | 2005-10-25 08:58 | 死に関する随想
ピリカメノコって知ってる?
アイヌ語で、美しい女性という意味だ。

洞爺丸って聞いたことある?
道産子で私の年代以上なら、洞爺丸のことをほとんど知っているだろう。でも、若い人や内地の人はどうかな?私の親達は、本州・四国・九州のことを内地と呼んでいた。今はどうだろう。死語なっているのかな。
中学生の頃、北海道は朝鮮、満州などと同様に外地だったのかと不思議に、そしてちょっと不満に思っていた。

洞爺丸事故の大惨事について、ちょっとレクチャーしておこう。
1954年(昭和29年)、青函連絡船洞爺丸(3800トン)は台風によって転覆した。その事故は、岸からわずか700メートルの地点で起こったにも関わらず、日本最大の、そして、あの有名なタイタニック号に次ぐ世界第2位の海難事故になったのである。
死亡及び行方不明 1155名、生存者 わずか159名

大学は北海道から東京に出た。夏休み、冬休み、春休みと、年2、3回、旭川の実家に帰っていた。1年で4~6回、青函連絡船に乗るわけである。長い汽車(蒸気だぞ)の旅のちょうど真ん中あたりで乗るわけで、いい気分転換になり、甲板に出て潮風を受け海の眺めを堪能しているときなど、まさに旅をしている気分だった。船に乗ると不思議と旅情がかきたてられるものな。帰郷の長旅の間に途中下車して、友人と会ったり、観光旅行したりしていた。慣れてくると、値段がほとんど同じなので、北海道周遊券を買って北海道中を旅行したりしていろいろな経験をした。でも、青函連絡船は別格の存在だった。
見方によっては、青函トンネルを抜けるよりも、飛行機でいっきに飛んでしまうよりも、ずっと贅沢をしていたような気もする。

そんなわけで、青函連絡船には特別の思い入れがあり、限りなくノスタルジーを感じてしまう。
5,6年前、お台場を家族で散歩してしていたとき、船の科学館というところに洞爺丸と同型船の羊蹄丸がつながれているのを偶然見つけた。跳び上がりたい気持ちになった。長い勤めを終えて展示場となっていた。昔、何度も何度も乗った船だ。入ってみると、船内に見覚えがある。懐かしくて思わず涙が出そうになった。遠い青い頃の過去にタイム・トリップして、家族がいることも忘れてしまっていた。

小学4年の時だった。
同じクラスに高桑さんという女の子がいた。眼がパッチリして、すらっと背が高く、ツバ広の白い帽子がよく似合う可愛い子だった。
はっきり自覚はしていなかったが、憧れを抱いていたようだ。
ある日、高桑さんがおしゃまな口で皆に饒舌に語ってくれた。

高桑さんのお姉さんと当時私達のの小学校で教育実習をしていた若いハンサムな学生が恋仲であった。学生が実家のある青森に帰るというので、札幌でデートをした。お姉さんは別れ切れず、函館に、そして、青森までついて行こうとしたらしい。そして、洞爺丸の悲劇に遭い、二人共帰らぬ人となった。
というような話だったが、私はというと、高桑さんの顔を盗み見ながら、うっとりして聞いていたに違いない。
高桑さんのお姉さんだ、きっと綺麗な人だろう。ピリカメノコだ。私達の小学校は旭川のアイヌ部落の近くにあり、アイヌの民話や伝説をよく学んでいた。
高桑さんの話はピリカメノコの悲恋伝説でも聞いているような気がしていた。
ピリカメノコと若者の恋の道行き。その恋が最高に盛り上がったところで突然の悲劇。ちょっと肉付けすれば、たちまちドラマになってしまう。

死は、時折甘美な様相を呈して人々を魅了する。
「死をかけて~する」とき、人々は心打たれる。
死をかけて国や組織や家族を守ったり、死をかけて信念や思想を実行したりする行為、死をかけて情交する情死すらも、人々の心をひきつけてやまない。
ピリカメノコと若者の恋が燃え上がり、死と言う形でピリオドが打たれたのだ。
まだ恋心ということすら知らなかった10歳の私も、高桑さんの話に夢見るように引きつけられたしても不思議はない。いや、引きつけられたのは高桑さんにだったかもしれない。そうすると、これは初恋の話じゃないか。

高桑さんは眼に一杯涙をためていたような気もする。
ここまでくると、過去を、自分の初恋を、相当美化してしまっているなあ。

小学校卒業後、高桑さんとは一度も会う機会がなかった。
どんなピリカメノコに成長したか、残念ながら知らない。
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# by tsado4 | 2005-10-24 12:02 | 死に関する随想
あっけなく人は亡くなるんだ。

伊豆の海は青く温かかった。
ライトブルーの美しい南の海をたくさん経験した今なら、何の感慨もなく、どうってこともない海と思うであろう。が、当時は衝撃だった。
北海道の荒々しい暗い様相の海しか知らなかった。
小学校低学年のとき、近所のガキ共でよく行った釧路の太平洋。旭川から、年に1度くらい海水浴に行った増毛の日本海。姉の家に遊びに行ったとき見た網走のオホーツク海。
皆、夏の海と言えども、冷たく暗かった。どこか人を寄せつけない、厳しさを漂わせていた。

大学に入った年の夏、大学のクラスの仲間と伊豆の戸田の海に海水浴に行くことになった。
サークルは山歩きの会に属していたが、その合宿の後だった。
確か、2泊3日だったと思う。
まだ受験が終わったばかりのようなもので、海の遊び方がわからず、浜辺でゴロゴロして漫然と太陽を浴びたり、岩場を散策したりしただけで、何もしなかったような気がする。
しかし、そこは若者。短い時間ですっかり打ち解け、仲良くなっていた。
これが海とのつきあいの始まりだった。
篠田と野呂。
社交的でリーダーシップのある野呂。その誘いかけに、物静かな篠田と田舎者で関東の地理のよくわからない私が乗った形となった。
私以外の二人は都立高校の出身だった。

3人で撮った写真が一枚残っている。
まだほっそりとした体型でにこやかに笑ってはいるが、足には普通のスリッパをつっかっけ、首にタオルをかけたり、頭にまいたりして、野暮ったいこと限りなし。湘南ボーイとは雲泥の差。私は田舎者だから仕方がないが、東京の二人もそうなのである。
なんとも海水浴とかレジャーとかいう言葉などとは縁遠い雰囲気。穏やかな海とは似合わず場違いな感じがする。女の子をナンパするなどという意識もなかった。たとえあったとしても、そっぽを向かれたろうが。

旭川へ帰って家で楽しい夏を過ごした。

夏休みも終わり、2学期の最初の授業だった。野呂がただならぬ興奮した表情で近づいてきた。
「篠田が死んだ。俺、葬式に出てきた」
「えっ」絶句した。
心臓の疾患であっという間に急逝したそうだ。
そんなことがあっていいのか。戸田で未来を語り合ったじゃないか。短いながらも楽しい時間を共有したではないか。
嘘だろう。人間ってなんてあっけないんだ。
心が真っ白になった。
珍しくその日一日は熱心に授業に集中した。心の空白を埋めたかったし、そうしないとなんだか篠田に悪いような気もしたのだ。
前から病気をかかえていたのかどうか、野呂もわからないとのこと。
とにかく、亡くなったのだ。認めたくない事実だった。
当然ながら、その後、篠田の姿を見ることはなかった。
功利的な学生達は薄情だ。篠田のことが話題になったのは、2,3日だけ。いつのまにか、皆、彼がいたという事実をすっかり忘れていた。私ももちろん同じだった。

篠田はナイスガイだった。
死んでしまったからそう思ったのかもしれないが、自己主張の強い、抜け目のない学友が多い中で、いつも控えめにニコニコ笑っていた。一緒にいると癒される気がした。試験前、私のサボった授業のノートを嫌な顔一つ見せず貸してくれた。ちょっとかげの薄い存在だった。篠田は自分の運命を感じとっていたのかなあ。
生きていたら、私よりもはるかに世の中の役に立つことをしただろう。
神様も気まぐれだ。
人生、これからだというとき、前途有望な若者の命を奪ってしまう。
いい加減な俺なんかを残して・・・とその時、少し思った。
この歳になると、素直に神様に感謝する。身体が不自由になったが、篠田に比べると文句なんか言えない。喜びも悲しみも良いことも悪いことも数知れず経験することができたものなあ。


「善人は早死にする」とか「天才は夭折する」とか言う。
逆じゃないのかな。早死にしたから、善い人に見えるんじゃないかな。夭折したから、天才に思っちゃうんじゃないかな。そういう言葉には、生き残った者の傲慢さと優越感が内在しているような気がするのは私だけか。
長生きした者が勝ちなのか。
理性的に考えれば、人生は長さではなく、いかに生きたか、密度だ。
でも、篠田の短い人生を思うと、そんなの屁理屈に過ぎない。

宇宙悠久の時間からみれば、人の一生なんて、一瞬も一瞬さ。
どんなに立派に生きたからといっても、篠田を忘れたようにやがては皆
忘れ去られてしまう。
我思う、故に我あり。デカルトの言葉だったっけ。
認識している己が死んでしまったら、すべてが無に帰するのか。それなら、冷酷な殺人者の人生も、生涯、人のために尽くしたヒューマニストの人生も、死ねば、まったく差はないということか。何か寂しい。というより、暗澹たる思いにとらわれて生きるって何なんだと考えてしまうよな。

人間らしく生きるには、神の存在が必要みたいだ。
「困った時の神頼み」という言葉。
普通は、人間、進退きわまったとき神様にすがりついて急場をしのぐというような、打算的なニュアンスでは使われる。
でも、私は、違った意味で理解している。
人間、歳を取ったり、絶望したりして、生きる意味を見失うときがある。そういったとき生きる意味を与えてくれ、方向を指し示してくださるのが神じゃないのかな。神頼みって、魂の救済というか、生きる意味の再構築とか、もっと高い意味で考えたい。

もう、少々死期が早まってもいい。
私は善人で死ぬことを切望する。

「惜しい人を亡くした」と、皆、言ってくれるかな。
上っ面だけの言葉でもいいさ。ハハハ。
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# by tsado4 | 2005-10-23 15:06 | 死に関する随想
私の住んでいる飯田橋の駅前にギンレイ・ホールという映画館ある。
名画座系で、封切り落ちの洋画、韓国・中国の映画、話題の日本映画を上映している。
これはと思った映画を観るようにしている。
月1回くらいのペースかな。
最近、続けて「空を飛ぶ夢」と「ミリオンダラー・ベイビー」という尊厳死をテーマにした映画が上映された。

空を飛ぶ夢
スペイン映画。
海の事故で首から下の四肢が麻痺してしまい、26年間、ベッドの上で過ごしているラモン・サンペドロ。絶妙な会話をこなし、すばらしい詩も書く知的男であるが、自らの命を絶つ決断をする。
主人公は、空想で空を飛び回る。残された自由は空想の自由なのだ。
空想シーンの映像がすばらしい。
その中の犬が交尾するシーンが、何故か、印象に残っている。
街角に放し飼いの犬のいなくなっって、そういう光景を見ることもなくなった。見方によっては過激なのに、どこか懐かしく心温まる思いがした。幼少期の原風景の一つなんだな。ごく自然に性というものを目のあたりにしていた。優れた性教育だったよな。何だかどきどきし、恥ずかしくもあった。空想シーンはいろいろな映像で人間の営みを象徴的に表していたが、人間の秘め事を連想させたかっただろうか。
性なんて、ごく自然なことで隠すべきものではないのに、人間様だけはどうも歪んだ方向に進んできたようだ。

ラモン・サンペドロ、26年間、禁固刑に服しているようなもの。
それ以上だよな。さらに、身動きできないようにベッドに縛り付けられている状態か。目の前、30センチの距離が永遠の距離と言っていた。
周囲に迷惑をかけているという思いもあって、死を願う気持ちは一時の気の迷いではない。強い願望なのである。
私は、この12月、フィリピンで痛風にかかりまったく動けなくなった。マニラの病院に入院し、1週間、ベッドから移動できない体験をした。その短い期間でも精神的に耐えられず、死を考えてしまった。ましてや、ラモンの場合を思うと・・・

ミリオンダラー・ベイビー
クリント・イーストウッド監督・主演。
老トレーナーと不遇な生い立ちから30を過ぎてもボクシングに情熱を失わない女性ボクサーとの出会いと心の交流。連戦連勝でタイトルマッチに臨む。ここまでは、女性版ロッキーだ。が、その試合で相手の反則をくらい、全身麻痺になってしまう。

ボクシングを取ったら何も残らない女性ボクサーは、死を望む。
老トレーナーは生命維持装置を外し、致死量のアドレナリンを注射し、姿を消す。「空を飛ぶ夢」に比べて、尊厳死にいたる過程が、荒削りで乱暴だ。
イーストウッドは、この映画をラブ・ストーリーと言っている。
深く愛しているから殺す。そんな無茶な短絡的論法、与することはできないな。絶望の中での衝動的願望。現実的には、他にするべきことはいくらでもあったのに・・・
フィクションの世界だものなあ。ドラマのエンディングしてはこんなものかなあ。

死を望む人の手助けをする。
法律的には、殺人罪。

人間としてのプライドが保てない状態になったとき、人は殺してくれと願う。
私はキリスト者のはしくれ。
神からいただいたかけがえない命を自ら捨てるなどということは許されない。自殺は認めたくないし、自らも絶対に拒む。
映画の中では、頑迷で杓子定規なカソリック司教の態度を批判的に戯画的に描いていたが、わからないこともない。

ラモン・サンペドロのような人の自殺幇助に軽々しく殺人だなどと言えない自分がいる。他にしてやれることがあるんだろうか。苦しむ他人を見て見ぬふりするのも罪だよな。
女ボクサーの場合だって、心情的には共感する部分もある。
この辺はグレーゾーンだ。
人は、立場によって、考え方も感じ方も違ってくる。
同じ人間だって、時間と共に変わってくる。
その時、その場で、深く考えて、正しいと信じたように行動するのさ。

安楽死と尊厳死、どう違うんだ。
病気で肉体的苦痛に極度に苦しむ状態にあったとき、本人は早く楽にしてくれと死を願う。家族も見ていられず、死を願う。
こういう肉体の苦痛の除去を目的とした死の手助け。これは許せる部分があるな。
一方、尊厳死は心の問題だ。これはできることなら認めたくない。
すべての方策が尽きた時の尊厳死、ウーン・・・・
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# by tsado4 | 2005-10-22 16:09 | 死に関する随想
(出版社) 太田出版 1600円 
(お薦め度)***

もう、うんざりだ。
これでもかこれでもかとフィリピンの否定的側面を大衆週刊誌風に面白おかしく語り続ける。ストーリー・テーラーとしては油が乗っている。

アウトローの世界、人格のない下半身の話は、ほとんどの男達は嫌いではない。そういう話に顔をしかめるような奴は偽善者っぽく嘘っぽく、私とは違う人種である。面と向かっても5分と話がもたないだろう。
でも、そういう私を惹き付ける下世話な話も際限なく語られると、私といえども辟易する。

確かに、フィリピンに何の後ろ盾もなく定住している日本人に胡散臭い人が多いのは百も承知だ。そうしないと生きていけない現実もあるんだろう。元新宿ボーイの私はそういう人達になんの抵抗感もないし、同じ匂いを感じてしまう。
胡散臭いと言えば、大企業の駐在員だって同じじゃないか。企業の本質を考えればやっていることにたいした差はない。自分達は、手を汚していない、一段高いところにいると勘違いしている脳タリンも多い。何をか言わんやだ。

私はそういう日本資本主義帝国の先兵達とあまり関わりたくない。向こうはもっと関わりたくないだろうけれど。会社のの仕事の虫達と、隠居生活を静かに受け入れようとしている私とでは、意識が全然違うし、共感し合う接点なんかない。
ちっぽけなエリート意識とつまらない虚栄心を懐に自己保身と出世に汲汲としているサラリーマンの輩などは日本であきあきしていたのに、フィリピンに来てまでイライラしながら付き合うことはない。

これからフィリピンに定住を志したり、ロングステイを考えている人はこの本を一読することは意味がある。
フィリピンの負の部分を認識し甘い気持ちを幾分かでも払拭できるというか、フィリピンに住む心構えのようなものが幾分かでも獲得できるかもしれないというか・・・
かといって、あまり気にし過ぎてもいけないね。売らんかなということで、誇張して書かれていることも確かなのだから。

この本を要約すると「毒も適当な量飲めば薬になることも多い」というところかな。
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# by tsado4 | 2005-10-01 07:25 | フィリピン関係の本の書評

死を考える

このテーマ、重すぎるかな。
でも、構えることなく、今思ってること考えていることを、毎日、少しずつ、書き綴ってみよう。
どっちみち、雑文・駄文集、落書き帳という位置づけなんだから。
書くことで整理できるってこともあるしね。いや、大いにあるね。

  ─────────────────────

児童期、少年期には、死について考えるだけでも、胸の奥が張り裂けるようで、その場にいたたまれず大声を出したい衝動にかられた。本能的に怖かった。

はっきりと、死というものについて意識して考えるようになったのは何時のころからだったろうか。
確か小学5年か6年の頃だったと思う。同じクラスの木村君という大柄で、大人びた子に「人間は、誰でもいつか必ず死ぬ。永遠に生きることはできない」というようなことを言われ、それまではそんなことを考えたことも無かった幼稚で奥手の私は、ひどいショックを受けたのを記憶している。
永遠に生きることはできず、いつかは必ずやってくる死。受け入れられない。何とか死なずに済ますことはできないものか、夢想していたような気がする。

高校の頃、今度は逆に「人間に与えらる最大の刑罰、苦しみは永遠に生きることを科されることである」というような内容を何かで読み、わかったような気もしていた。実際は何にもわかっていなかったのに。でも、とにかく、死は本能的に怖かった。やはり、心の奥がキューンと絞めつけられるような恐怖。
青年期も壮年期も、努めて、死というものを考えないように考えないようにして、逃げ回っていた。真正面から考えることはなかった。

大学時代は、一応、理系の学生であり、唯物論的な考え方(弁証法的唯物論かな、ハハ)しかできなかった。「人間、死んだら、どうなるか」「虚無である。何にも無い」といったような、青臭い議論を知ったかぶって交わしていた。
死んだら、何にも無い?暗黒の世界?その暗黒であることすらも意識できない。怖い。じゃあ、生きているうちに、せいぜい楽しまなくちゃ。刹那主義的な享楽主義的な生き方をするようになっていた。何も信じられない。何か絶対的なものがほしかった。
寮に入っていたのだが、夜遅くまで、お題目(?)を唱えている創価学会員の友人を半分馬鹿にし、半分羨ましくもあった。よりどころをつかもうと、いろいろなものに手もだした。
俺は、何にも支配されないアナキストだなんて、いきがってもいた。
ハハハ、馬鹿だねえ。

よく、一人で、旅をするようになった。当時は気軽に海外へ行ける時代ではなかったので、国内だったが。そのうち、南の島にはまってしまった。
自然(海)と対峙しているときだけは、不思議と心が休まった。
やっぱり、生命の起源は海なんだ。
納得した。

壮年期に入ってからも、いつかは死ぬと頭では理解しているものの、それはずっとさきのこと、まだまだ、自分には関係のないものだと思っていた。
死に損なってよれよれに生きている私にとっては、今元気にしている同年代の友人たちが羨ましい。でも、もう30年もすれば、皆、ほとんどこの世からいなくなっているんだよな。
そういうこと、忘れて生きている。それはそれで幸せなことなんだ・・・

  ─────────────────────

確かに死ぬことはこわいが、不幸に生きることの方がずっとしんどいんじゃないかな。
人間の尊厳を無くして、無意味な生を送るくらいなら、私は死んだ方がましだと思ってしまう。いわゆる「生ける屍」なんて、まっぴら御免だ。

人生を生きている物理的長さで考えたくない。
夭折はしたけれど、濃縮された人生を、普通の人の何十倍もの人生を、生きたすごい人が大勢いるよな。

現代の健康ブームも、首をかしげてしまうことが多い。
長生きするという量の方ばかりに目がいって、人生の質にあまり着目していないよね。
充実した意味のある生を送るという視点で、もっと考えるべきだよな。
アイロニーをこめて言わせてもらうと、死にたいくらい退屈でも、なんとか生きていることを志すのが、健康ブームさ。
どうしても生きてしなければならないことがあるから、健康に限りなく気をつけている人って、どのくらいの割合なのかな。

長生きしたからって、勝ち組じゃないんだぜ。
寿命はよくロウソクに譬えるられる。
ロウソクが長ければ良いってもんではない。何を照らしたかが問題なんだ。

それに、人生を勝ち負けでとらえること自体が間違っているんだよな。
例えば、人生を、マネーゲームととらえるなら、そりゃ、勝ち負けがはっきりするかもしれない。この見方が現代の支配的風潮だし、たいていの人が、程度の差はあれ、これに毒されている。私も、無意識の部分で、影響を受けて逃れられない。
しかし、人生を、マネーゲームと考えたり、権力争奪ゲームと考えたりするのは、私には、やはり愚かで、無意味なことだ。
テレビでお金持ちの生活を紹介する番組をやっていると、いらいらしてすぐ切ってしまう。嫉妬もあるんだろうけれど、それだけじゃないな。お金を絶対視する風潮、うんざりなんだ。

価値観は人それぞれだ。決め付けちゃいけないよね。
そういう考え方をする人もいてもちろんいいんだ。でも、そんな淋しい人間と、私は、つきあいたくないね。向こうも避けるって。そうだ。避けてくれればそれでお互い、ハッピーてところかな。

とすると、「ただひたすら長生き」ということに価値をおく人もいていいわけだ。百寿者になることに、生きがいを見出すってのも良いよな。私はどう転んでも無理だけど。

とにかく、人生には勝ち負けはない。
人間一人一人が、他の人に置き換えられない唯一無二の存在である。他の人と比較してはならないんだ。

そして、遅らばせながら、残り少なくなったロウソクで「何を照らす」かについて、真剣に考え始めている。本当に遅いけどね。人生終わり近くになって気がついただけで、よしとしようぜ。

  ─────────────────────

私はキリスト者だ。
自殺は絶対しない。神様からいただいた大切な命を自ら捨てることは絶対にしない。
でも、脳出血で倒れてからは、身体がつらい。頭も働かない。どこかこう生きる気力が萎えてくる。生きることにあまり執着しなくなる。私は、病気によって、このような気持ちを持つようになったが、人は皆、70になり80になり90になり、齢を経るごとに個人差はあるものの、このような状況に陥るような気がする。
自殺とは違うが、どこか「お迎えが来る」ことを待望するような心理状態になるんじゃないかな。
やがては、人は人生に疲れるんだ。そう、死は安らぎなんだ。
今は、「永遠の眠りにつく」とか「人間に対する最大の残酷な刑罰は、永遠に生きさせ続けることだ」とか言う言葉の意味が良くわかるようになった。

こういう状況に陥った人には、生きようという意欲をかきたてる何かがどうしても必要になってくる。生きる希望というか生きる動機というか。
それがなくなったとき、人は、消え入るように死んでいくのさ。「寿命がつきる」とか「天寿をまっとうする」言ってさ。
私には、今、生きる希望、動機を創り、持ち続けることが必要だ。生きることの意味をどうしても探さなくてはならない。フィリピンに住みフィリッピンを旅行してまわろうと志していることも、その一つだ。そこから新しい何かがさらに見つかるかもしれない。とにかく、私は今、かなり際どいところにいつような気がする。ここをなんとか抜け出したいものだ。


   ─────────────────────

死と本格的に向き合うようになったのは、やっぱり脳出血で倒れてからだ。

50歳を過ぎてから、死について書かれた本を読むようにはなっていた。
キューブラー・ロス「死の瞬間」、曽野綾子・デーケン「生と死を考える」、山崎章郎「病院で死ぬこと」など。ホスピスとかターミナル・ケアに関心を持つようになっていた。が、あくまでも他人事であった。

倒れたとき、夢うつつの病院のベッドで
   終に行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを
という歌が思い浮かんだ。
「とうとうやってきたか。こんな風にしてくるんだなあ」
いつ死んでもおかしくないんだという思いが実感となって、私の心に定着した。

そうなると、自然と「残された日々をどう過ごすか」が切実な問題となる。
毎日毎日を慈しんで楽しんで生きよう。一日一日が大切に思えてくる。

生活を楽しむと言ったって、享楽的生活とは全然違う。だから酒色に耽る刺激的生活なんて、今の私にはほとんど関心も無い。求めるものが根本的に違ってきている。
それじゃあ、関心がありしたいことは何?
 出会いを楽しみ、感動することだ。
 心を通じあわせることのできる人と出会う。美しい景色と出会う。そして、静かで穏やかに流れる時間の中に身を沈める。フィリピンを旅行しようという願いもこの文脈からだ。
幸せは「心の中」にあるのさ。
人を支配したり、人より多くのものを持ったりして、優越感をいだいて人と比較することで幸せを感じるなんて、貧しく卑しい心の働きじゃないかなあ。本当にしあわせだとは、とても思えない。
もう一度言おう。
幸せは、「対人関係の中に」ではなく「自分の中に」あるのさ。


平凡であること、普通であることが、すばらしいことなんだ。今は、そんな気持ちでいる。

  ─────────────────────

昔のように死ぬことは、さしてこわくなってきた。

ところで、何故、若いとき死ぬことはこわいのか。
種の保存のためにも、若いとき、本能的に死を怖がるようにできているんだよな。
若い人間が簡単に死を選ぶようだとすぐに種が絶滅してしまう。
ところが、ある年齢(子を産む必要がなくなる年齢)に達するとさしてこわくなくなってくるんじゃないかな。
DNAにプログラムとして埋め込まれているんだよな。

じゃあ、誰がそのプログラムをくんだのか。
ここにくると、神としかいえなくなってしまう私がいる。
やっぱり、神の存在を信じますよ。
神なんかいないという無神論者のあなた、誰がプログラムを組んだのか、私にわかるように説明してくださいな。


歳をとってある程度覚悟するようになっても、やはり死はこわい。
そこは、未知の領域だからか。知らない場所、知らない事象は、誰もがこわい。不安だ。誰にとっても、死ぬことは未知の土地にいくことなんだ。その先には、何が待ち構えているかわからない。何が起こるかわからない。死ぬことは冒険なんだ。本当に未知の世界に旅立つんだ。
どうだい、楽しくならないかい。死ぬことはアドベンチャーなんだ。
私は、死に際にこう言いたいなあ。
「これから、冒険に出かける。ワクワクするねえ」

よく臨死体験で、三途の川を渡らずに引き返してきたとかなんとか読む。どうしても、胡散臭く感じてしまう。
三途の川とか針の山とか血の池とか、天国とか地獄とか、これって、皆、今、私たちが生きている世界の擬似世界なんだよな。現世の人間の認識・感覚で創り出した世界。
でも、私はこう考えたい。
死後の世界って、今の世界の認識・感覚で捉えられない全く異次元の世界なんだ。だから、死後の世界は、今生きてる私たちには想像すらできない。

若い時は「死んだら何もない、虚無だ」と思い込んでいた。でも、これって、根拠が無いんだよな。そう考えるのが、科学的態度だと信じ込んでいた。
でも、科学的態度って何だ。現代の科学の最先端の理論、科学的真理だって、後、何百年かたてば、当時の人たちはこんな風に考えていたのかと、お笑い種になっているかもしれないんだよな。人類の歴史の中で、まだまだ、コペルニクス的転換は、あるだろうさ。人類自体が一人の人間と同じように、有限であり終わりがある。人類の歴史なんて、地球の歴史からしたら一瞬なんだ。カゲロウのような存在なんだ。ましてや、宇宙の歴史からしたら・・・

死後の世界が「存在する」と思うのも、「何もない」と思うのも、どっちもどっちだ。誰も実証できないんだから。その人がどう思うかでいいんじゃないかな。
私は「存在する」と考える。その方が楽しいから。

でも、肉体は腐敗したり焼却されたりして、無くなってしまうのは確かだよな。何にも無くなるんじゃないか。
こういう風に考えよう。私たちの身体は腐敗し焼却されて、その細胞は分子となり原子となり、自然に還り、自然界の一部となる。
自然界と合一すること、それが神の元に行くことなんだ。

そう、死ぬことは何にもこわいことじゃないんだ。自分を完成させること、宇宙と一体になり一段と高いサムシングに昇華することなのさ。

  ─────────────────────

ところで、人は、何故、墓をつくるんだ。
亡くなった愛猫の死を悲しんでささやかな墓を作るというブリミティブな次元だったら、それはそれで好ましいんだけど、なんだか人間様の場合は違うよな。
一族の名声を誇ったり権勢をしめしたり、周りと同じにしないと世間に顔向けできないと考えたり、どうやら、生きている者のために作っているような気がする。葬儀も然り。
立派な墓に葬られるのも、山の中で野ざらしになるのも、私にとっては同じこと。むしろ、野ざらしになる方が「自然に還る」という意味では、望ましいし、正しい。
葬式産業の世話には、できるだけならないでくれ。墓なんかに金をかけるなよ。
マニラのパシグ・リバーにドザエモンになって浮いて、そのうち、魚に食べられてもいいんだぜ。うーん、やっぱり嫌だなあ。

死ぬこととは、自然に還ること、自然・宇宙と一体化することなんだ。私の身体を構成していた原始分子が、炭素などの元素となって、自然の中に拡散していくことなんだ。
遺灰を海に散布するのが、理想だな。熱帯雨林でも良い。エジプトの王やレーニンのようにミイラになるなんて最悪だ。

 妻への遺言
愛するカアチャン、俺は、墓なんかいらない。葬式もいらない。それでは気がすまないというなら、神父様に祈っていただいて、その後は、俺の死を本当に悲しんでくれる奴だけで、飲んで食べてにぎやかに楽しくやってくれ。俺の悪口を、恨みつらみをさんざん言っていいよ。

お願いだから、コツツボなんかに入れて、暗い地下なんかに閉じ込めないでくれ。
俺が死んだら、遺体をさらさらの灰になるまで焼却して(ウェルダンだよ)、その遺灰を、子供たちとの思い出の地、セブか、ボラカイか、エル・ニドの夕陽の傾く美しい海に、撒いてくれ。俺の墓は大自然だよ。

墓が無いことに抵抗があり、俺のこと、少しでもいとしく思えたら、きれいな小瓶(香辛料なんか入ってた小瓶でいいよ)に俺の遺灰をつめて持っててくれよ。かわいいリボンなんか結んでさ。「世界の中心で愛を叫ぶ」の真似だって。いいの、いいの。俺がロマンチストでミーハーだって、よく知っているだろ。
あるいは、これもテレビで見たんだけど、灰をペンダントにつめて首にかけててくれよ。粘土に混ぜて焼いて、陶器の十字架にしても良いよ。しっかり守ってやるからな。

なるべく頑張って、生きるつもりだけど、何時、神様のお呼びがあってもいいように覚悟だけはしているよ。

この遺書が読めないって。和夏の母さんか、清太の嫁さんになっている人に読んでもらえよ。
みんなと仲良くするんだよ。ガミガミと口やかましくするなよ。
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# by tsado4 | 2004-10-14 13:41 | 死を考える
まずは、次の歌詞をじっくり味わってみてよ。知っている人は、小声で歌ってみてよ。
彼女の情念のこもった声を思い出してみてよ。

赤く咲くのは けしのはな
白く咲くのは 百合のはな
どう咲きゃいいのさこのあたし
夢は夜開く

十五 十六 十七と
あたしの人生暗かった
過去はどんなに暗くとも
夢は夜開く

昨日マー坊 今日トミー
明日(あす)はジョージかケン坊か
恋ははかなく過ぎて行き
夢は夜開く

夜咲くネオンは 嘘の花
夜飛ぶ蝶蝶も  嘘の花
嘘を肴に酒をくみゃ
夢は夜開く

前を見るよな 柄じゃない
うしろを向くよな 柄じゃない
よそ見してたら泣きをみた
夢は夜開く

一から十まで馬鹿でした
馬鹿にゃ未練はないけれど
忘れられない奴ばかり
夢は夜開く

夢は夜開く

   ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

宇多田ヒカルの「ファースト・ラブ」と比較してどうだい。
比較の対象にならないって。やっぱりねえ。

藤圭子は、旭川の小学校、中学校に通った。
私と同時代に旭川に棲息していたらしい。
だからか、どこか親近感を持っててしまう。

若い頃、藤圭子は、あまり好きではなかった。
前川清とのバカップルに、軽い軽蔑さえ抱いていた。鼻であしらっていた。

だが、歳を取った最近、どんどん、圭子が好きになっていく。その良さがわかってきたのかな。

圭子は、暗い情念を歌っていたけれども、本当はものすごくポジティブで革命的な女なんだよな。

新宿、花園神社の境内に「圭子の夢は夜開く」の碑がある。
ゴールデン街の隣りの花園神社は、よく徘徊した、私の想い出の地でもある。
喧嘩して、深夜、友達をボコボコにしたこともある。アサハカだったよな。
        
    ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

原因を思い出した。
よかった、女のことじゃなかった。
お坊ちゃまのスカした野郎が、親に金をもらって、口先だけでナマを言うんで、腹がたって腹が立って、プロレタリアートの鉄拳制裁さ。
当時、毎日、建設現場の肉体労働に明け暮れていた。
気分だけはプロレタリアートさ。
ハハハ、全然、違うのにね。馬鹿だよねえ。
暴力には、免疫のある時代だった。暴力のことをゲバルトと言ってね。

      ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

おいおい、穏やかじゃないねえ。
お前、キリスト者なんだろう。
ああ、でも、当時は違った。衝動だけで動く、心の荒れた自分がいた。
まったく、一から十まで馬鹿でした。
考えは足りなかったけど、結構純粋に思いっきり生きていたことは確かなんだが・・・

深夜の鉄拳制裁、こんな罪、まだ軽い方さ。
もっともっと大きな罪を犯していたような気がする。
法律的な罪を言ってるんじゃないよ。

   前を見るよな 柄じゃない
   うしろを向くよな 柄じゃない
   よそ見してたら泣きをみた
ここのフレーズ、特に好きなんだ。
よくわからないが、不条理を感じ取るんだ。

夢中だった。その時を精いっぱい生きていた。
まわりなんか見えなかった。
自分の好きな自分がいた。
1970年代。

    ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


鉄拳を振るったなんて、お前、ちょっと、かっこよすぎるんじゃない。
まあ、勘弁してよ。実際は、振るわれた方が多かったんだから。
人生、終わってみれば、プラスマイナス、差し引きゼロさ。

新宿3丁目の「ポパイ」って飲み屋で飲んでいて、喧嘩になり、表であっと言う間にのされたことがある。後で聞いたら、元ボクサーなんだって。
てやんでえ、素人を殴るなんて、ボクサーとして失格だろうに。(だから、元がつくんだ)
でも、大怪我をしなかったところみると、だいぶん手加減をしてくれたんだよな。
酒癖が悪かった。自業自得さ。どうせ、お前がからんだんだろう。

自分の鼻血で血だらけになってわめきちらしていた。かっこワル~。
たぶん人だかりができていたんだろうな。
パトカーに乗せられて、四谷警察署に直行。
一応、被害者なので、まもなく解放されたが、署内でギャアギャア、がなり立てたのを覚えている。男のヒステリーさ。
どうだい、俺って極めつけの馬鹿だろう。
後で知ったんだが、新宿でも、あの辺は、四谷署の管轄なんだ。
どんなときでも、知ることはあるんだぜい。

それから、しばらくして、いつも一緒にいた遊び仲間が酔っ払って喧嘩して殴られてた。
類は友を呼ぶ。馬鹿は群れるんだよな。今も昔も変んねえ。
でも、そいつは頬骨を折って2ヶ月くらい入院した。
どうだい俺って馬鹿だけど運が良いだろう。
昔から、ギリギリのところで難を逃れるんだ。
 
    ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

どうしても「圭子の夢は夜開く」を聞きたくなり、税込み1029円の藤圭子のCDを買った。このところ、リハビリの筋トレをしながら、毎日、聴いている。
男に従属するか弱い水商売の女、不幸願望のマゾヒスティックな女のオン・パレード。
弱者としての女を強調する他愛もない歌詞に辟易する。
この歌詞、頭で考えると腹が立ってくる。
音楽って、心で感じ取るもんだったな。特に、庶民の音楽は。
演歌を聴く姿勢がなっていないんかなあ。
幼い頃から、浪曲師の両親と温泉場を旅回った藤圭子の原風景を想像しな。

自己暗示をかける。
理屈ぬきで、どっぷりと浸ってみよう。

なるほど、うんうん、良い気分がしてくるね。
良いよ。良いねえ。
感情の襞の奥深くにしまいこまれているネットリとした熱いものが騒ぎ出す。
   馬鹿だな、馬鹿だな、騙されちゃって~
   夜が冷たい 新宿の女~
これって、状況をちょっと変えれば、お前じゃないか。
ホロリとくるね。

そういうわけで、聞き込んだ結果、パソコンに入れる藤圭子のBEST3曲を次のようにした。
 「圭子の夢は夜開く」
   過去の不幸な自分を断ち切って明日を生きようという藤圭子には珍しい未来志向の曲。このメッセージ、藤圭子自身の気持ちにに、一番近かったのでは。若いときも、この曲が好きだった。夢は夜開く、意味はよくわからないけど、とにかく前向きになるよね。
  「命預けます」
   こんな女でよかったら、命、預け~ま~す。成熟した女の開き直りが小気味良い。生活がマンネリ化して秋波のたってきた夫婦は、旦那にこの曲をささげると、旦那、ドキッとするぜ。ジョークで収まれば良いけど。
  「京都から博多まで」
   すべてを捨てて、好きな男を追いかけるひたむきな女。これは素直な軽い気持ちで聞ける。すうっと心に入ってくる。

    ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

ここまできたら、藤圭子のファンになっちゃえということで、藤圭子の関連サイトを見て回った。
そこで仕入れた面白情報
  ・赤塚不二夫の漫画に出てくるハタ坊の「ホッカイローのケイコターン!ダリラリラーン」のケイコターンは、藤圭子のことだった。知っていた?
でも、後になって赤塚は、このことを否定したらしい。

  ・藤圭子を北海道岩見沢市の名誉市民にしようという動きが出ている。ヒカルちゃんのおかげかな。たぶん、藤圭子は興味がないだろうな。

  ・五木寛之は、藤圭子の歌を演歌でも援歌でもなく、怨歌だと言った。「ゴキブリの歌」に書かれているらしいけど、読んだ記憶ないなあ。

  ・宇多田ヒカルの札幌公演(真駒内)で「夢は夜開く」の母娘でデュエットが実現したとき、客席の圭子コールに合わせて、ヒカル自身が「藤圭子!」とコールしたらしい。舞台に圭子が出てきたときヒカルもびっくりしたということだ。な~に、仕組まれていたんだべさ。

  ・たった1年の結婚生活だった前川清との離婚に際し、クリスチャンだったため、離婚の許可を得るためヴァチカンを訪れたと書かれてある。藤圭子って、クリスチャンだったの?本当?私としては、とてもうれしいの一言。ヴァチカンということはカソリックだものね。これって、本当なら、彼女を解くキー・ワードだよ。とにかく、真偽を調べなくちゃ。

  ・米国留学後、圭子はニューヨークで宇多田照實とロックバンド[キュービックU」を結成し、スタジオにもバンド活動にも、娘を連れていった。それがヒカルだ。要するに、小さい頃から、英才教育をしていたんだよな。圭子の生い立ちと重なるね。宿命を感じるよ。
   
   ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 藤圭子の履歴(付録:佐太郎の馬鹿丸出し人生)

1951年7月5日 岩手県一関市で誕生
           生後間もなく北海道旭川市に移る。
           小学生の頃から浪曲家の両親の旅まわりについていく。
     (佐太郎 1945年北海道北見で誕生。釧路を経て、1955年、旭川に移る)
中学生の頃  岩見沢市の岩見沢ホールの専属歌手
     (佐太郎 1963年上京。下総中山に住み、御茶ノ水の予備校に通う。ケネディ暗             殺)
     (佐太郎 1964年 大学入学。吉祥寺に住む。東京オリンピック)
     (佐太郎 1967年頃 新宿デビュー、この頃、新宿にフーテン族出現。長髪、汚い ジーパン、ゴムゾウリの格好をした佐太郎は、そんな意識もないのに、大学の友人にはフーテンと呼ばれる)
1968年春 家族で上京。
        レッスンを受けながら、錦糸町、浅草界隈で、流しをする。
     (佐太郎 1968年 新宿騒乱、三里塚闘争の激動の年を流されて生きる)
1969年 デビューシングル「新宿の女」発売
     (佐太郎 1969年 大学卒業、某自動車会社勤務)
1970年 「夢は夜開く」で歌謡大賞受賞
       「命預けます」でレコード大賞大衆賞受賞
1971年 クールファイブの前川清と結婚
       ゴールデンアロー賞受賞
1972年 前川清との離婚発表
    (佐太郎 1972年 フリーターになり、自由放縦な生活を送る、八重山群島など、南           の島によく行くようになる) 
1974年 喉のポリープ手術、かすれた声が出なくなる。
1979年 突然の引退声明。 
1980年 アメリカへ28歳の旅立ち
       カリフォルニアを経てニューヨーク滞在
1982年 ニューヨークNYにて宇多田照實と結婚
       (佐太郎 1982年 マニラにて結婚)
1983年 ヒカル誕生
       (佐太郎 1983年 長男誕生)
1990年頃 夫、娘とU3を結成、活動を始める。

どうだい、佐太郎の馬鹿丸出し人生、妙に、藤圭子と符合するところがあるだろう。

   ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 極私的藤圭子考

 圭子の仕草、生活態度は、ハスッパに見えるが、その中に自立した熱い情熱が渦巻いている。
 圭子は、慣習・しきたり・世間体をほとんど気にしない。
 圭子は、防御的人生を歩まない。

これは、わが郷土、北海道女性の一典型に私には思える。
歌手・藤圭子より人間・阿部(宇多田)純子に興味を持ちだした。


圭子のかすれたくぐもり声には、ねっとりとした情熱、熱い吐息を感じる。その微妙な揺れは、男達の感情の根幹の部分を揺さぶる。
暗い過去を背負った寡黙の少女、レコード会社の売り出し姿勢はあったろうが、歌声は、やはり、暗い癒し系だよな。

今まで気づきあげた物を夢のためにあっさり捨てる潔さ。
演歌の大御所になることもできたのに、それをあっさり捨てて、アメリカに渡った。

幼少期から、圭子にとって、歌うことは、そのままお金をかせぐこと、食べることだった。
いつの頃から、圭子は、本当に歌いたいものが違うように感じたのじゃないかな。
音楽的な渇きを感じていたのじゃないかな。
圭子は、自分の歌っている演歌の世界の女とは、反対の資質を持った、自立した強い女性だったのだ。圭子の「怨歌」は、ひょっとすると、「こんなの私じゃない」とという痛切な叫びだったのかもしれない。
赤く咲くのは けしの花~
あの暗い情念に満ちた「怨」を感じさせるハスキーな歌声は、「本当の自分」とはかけ離れた状況で生き続け、歌い続けなければならない彼女の恨みの響きだったと言えないこともない。
圭子は「本当の私」を探しにアメリカに旅立った。アイデンティテイを求めて。


旭川での小中学時代、アメリカに渡った後のこと、まだよく知られていない。
本当にクリスチャンなのか。
まだ、知りたいことは、たくさんある。

あなたは、夢のためにすべてを捨てられるかな。
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# by tsado4 | 2004-10-02 11:36 | 藤圭子