日頃それとなく感じている思いをそこはかとなく書きつくる雑記帳というか、駄文集というか、落書き帳というか・・・


by tsado4

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物静かなカップルだった。
新宿歌舞伎町にあった「ジャズ・ヴィレッジ」というお店で知り合った。
当時、私はそのお店の常連で、日本酒の一升瓶を片手に、結構でかい顔をして飲みまくっていた。酒をかっくらった勢いで、お店の中を我が物顔で移動して、誰彼となく話し込んでいた。

モダン・ジャズと一升瓶。
変なお店だろう。
時代時代に、ちょっと危険の匂いのある、社会の常識に反抗的な変わった人間達が集まるお店があるものだ。ジャズヴィレ(そう私達は呼んでいた)は、1960年代後半のそれだった。ある意味で、時代の風潮の最先端を行っていた。
多分自分一人では行けなかったのだと思うが、同じ大学のクラスメートの香山君という東京杉並区出身の、流行に敏感な友人に面白い店があると連れて行かれた。新宿などほとんど知らなかった田舎者の私は、ミイラ採りがミイラになった状況で、そのまま、そのお店に入り浸った。

もう昔のことなので記憶は定かではなく漢字もわからないが、確かトガリさんという名だった。
話しているうちに京王線の幡ヶ谷の同じ公団住宅に住んでいることがわかり、仲良くなった。旦那は歳よりも落ち着いた人で、奥さんは美人ではないが、感じの良い愛くるしい人だった。どちらかが、大学院生だったと記憶している。
私は2階に住んでいたが、5階のトガリさんの部屋によく遊びにいくようになった。
そのうち、暗い顔で、新宿クリスマスツリー爆弾事件で公安に事情聴収を受けたと話された。ああ、どこかのセクトの人なんだと思い、彼らから距離を取るようになった。

しばらくたったある日のお昼頃、公団の入り口から通りに通じる道で、奥さんと出くわし、挨拶を交わした。
いつも通り、いや、いつも以上に、にこやかな笑顔だった。
ところが、翌日、同じ道で旦那の方に出会った。
「うちのが昨日自殺した」とやはり落ち着いた口調で聞かされた。
驚愕した。
死んだ時間を聞くと、私と出会ってから、そんなに時をおかずに自殺したらしい。
死にゆく人は、重苦しい深刻な顔をしているものだという先入観が見事に打ち砕かれた。

彼女にどんな事情があったかわからない。
爆弾事件に関わりがあったのかとか、いろいろ推測はしたものの、時とともにすっかり忘れてしまった。
だが、時間の経過を超越して忘れないものがある。
彼女のあの日のあの笑顔。
にこやかで平安に満ちた笑顔。
永久(とわ)の微笑み。
今でも、時々、思い出す。

時には、死は解放であり平安なのだ。
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by tsado4 | 2005-10-27 18:48 | 死に関する随想
2003年6月、母の納骨のため、父と兄の眠る富山に、姉妹と総勢5人で来ていた。雨の富山は静かに落ち着いていた。久し振りの地方都市。故郷旭川を思い出し懐かしい気持ちになった。

小雨そぼ降る墓地で、納骨の式がとりおこなわれた。
坊さん、早く帰りたがっているのがありあり。経もおざなり。
母との別れをしみじみとした気持ちで終えたかったのに、腹立たしかった。坊主もやはり葬儀産業の一員か。
気を取り直し、ビニール傘を閉じ墓前で静かに手を合わせる。母を思い出す。わびる。悲しみが湧き上がる。
小雨は降り続ける。
静かに時間が経過する。
この知らない土地で、母は亡くなったのだと実感した。
非日常的で厳粛な感覚になっていた。
これが欲しかったんだ。
母、いや、母さんとの別れをはじめて済ませた気がした。

母は、四月下旬、97歳で亡くなった。
葬儀は、渋谷区西原の斎場で行われた。普段は、私に指図する姉達なのに、こういうときは、急に保守的になり、喪主は男である私を指名した。いろいろな折衝や雑多な事務はすべて姉達にまかせ、私は、びっこひいた、お飾りの喪主となった。
今や、葬儀は、システム化、ビジネス化され、流れるように、遺族の手をほとんどわずらわすことなく進行していく。遺体の1週間の冷凍保存、お通夜、火葬、お葬式等、すべて一つの斎場の敷地内でおこなわれる。営業マン、セールス・レディ化した葬儀屋の愛想の良い態度、時間に正確に淡々と進む式、事務的な読経。まったく、滞りない。葬式は結局、生きている人間の都合でやるもの。忙しい現代人には産業化、合理化された葬儀が必要となっているのだろう。

「お母様、石原裕次郎を焼いた窯で焼くんですよ」と葬儀屋のセールス・トーク。
「裕ちゃんファンだった母も、さぞ歓ぶことでしょう」なんて、心にもないことを答えていた。むなしかった。

しかし、何か、変だ。
親族が集まって、亡き骸と共に一夜を過ごし、死者を語り、悲しみに沈んで死者を送る、あの厳粛で非日常的な感覚や空間は、どこに行ってしまったのだろう。
兄は下北沢で不慮の事故で死んだ。その通夜に、私達家族は、死者を淋しがらせないようにと、ろうそくが消えないように寝ずの番をした。深夜、一人で、棺のふたをずらし、兄との最後の別れをしていた。そのとき、次々と幼き日の兄との思い出がよみがえり、私は慟哭した。
40年くらい前のことなのに、つい最近の出来事のような気がする。

母の葬儀で唯一、お葬式らしさを感じたのは、窯に入れる前、母の遺体と最期の対面をしたときだった。病院で遺体とは対面していなかった。
まだ若かったときの母、優しかった母、甘かった母。ちょっとおちゃらけだった母。フラッシュバックとなって、次々、よみがえる。
「母さん、ゴメン。心配ばかりかけて、何も親孝行できなかったね」
とめどなく涙があふれていた。
父のときは、少しも涙がでなかったのに。
感傷的になり、人間らしい気持ちが残っていた自分が心地よく、涙を拭いもせず流れるままにしていた。
が、こちらの気持ちと関係なく、無機質的に式は進行していく。

小学校低学年の頃、北海道釧路に住んでいた。あの頃、夕暮れになると、なんとも言えぬ嫌な、物悲しい匂いがよく街を漂った。火葬場で人を焼いた匂いだと教えてもらった。まだ、焼却炉も不完全だったのだろう。私の鼻孔の奥底に、死の匂いとして、ノスタルジーとなってまだ残っている。
現代人は死を考える契機を失いつつあるというか、死を考えまい考えまいとしている。死を思い起こさせるあらゆるものを抹殺しようとしている。
死を考えることは、生を、命を、真剣に考えることでもあるのに。

脳卒中で倒れたことに加え、父と母の両方をを亡くしたことになり、自分の死をはっきりと射程に入れなければならなくなった。
死を考えること、死を意識することは、残された日々をどう生きるかにつながる。日々の生活に緊張がもたらされる。
憎悪とか嫉妬とか復讐とかいった、負の感情を持たなくなる。
そんなもの、死と比べれば、取るにたらぬものだものな。

現代人よ、死を恐れるな! 
死ともっと仲良くなって向かい合ってごらん!

教育の中に死を取り込む必要もあるな。
性教育があるなら、死教育というものがあってもおかしくない。
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by tsado4 | 2005-10-26 11:53 | 死に関する随想
君は死神って信じるか。
フフンと鼻で笑ったな。まあ、聞いてくれ。

工学部の冶金学科と言うところの学生だった。
冶金学科、今は金属工学科とい言っている。
真面目な学生ではなかった。というより、冶金の勉強など、まったくする気がなかった。興味がなかった。
数学や物理化学の成績は良かったし工学部は就職率が良いという現実的な理由、ただそれだけで、工学部に入ってしまった。が、完全に自分の嗜好、関心というものを見誤っていた。
田舎の高校に通っていて悔やんだことは、まともな進学指導がなかったというただ一点だった。
とにかく、冶金学科の授業、実習など、単位が取れると踏んだ限りは、できるだけサボっていた。

いつものように午前の授業をサボっていた私は、午後からの授業に出るため、お昼早々と教室に入った。
誰もまだ来ていなかった。
気がつくと、ゴーゴーとすごいイビキのような音が聞こえる。
近寄ってみると、掃除のおばあさんが、並んだ椅子の上にに仰向けに寝ていた。
ただごとならぬ気配。抱き起こすと白目を向いていた。悪い予感が心をよぎった。あわてふためいて、近くの図書室の職員を呼び、事務室に連絡してもらった。授業が始まるときは教室の廊下の外に寝かされていた。終わったときには顔に白い布がかぶされていた。
予感的中。
始めて、死にゆく人に立ち合ったという異常な感覚で、しばらく、興奮していたようだ。

それでも、いつものように、大学の前の雀荘へ、いつもの仲間と一緒に繰り出した。
麻雀は強かった。イカサマ師以外にはほとんど負けなかった。正規の腕なら絶対負けないと過信しマージャンのプロになろうかなどと愚かなことを考えたりもした。
小賢しい奴の多い大学。皆、仲間はそれ相応に強かった。

でも、この日は違った。
つきにつきまくった。何をしてもうまくいった。
大勝する私にあきれて
「お前には死神がついている」と言い残して、皆、早々に立ち去った。
そうか、俺には死神がついていたのかと思わずニヤリとしてしまった。死神はギャンブルの神様を兼ねることもあるのか。
もう一度、ニヤリとした。

人生はあざなえる縄の如し。
幸と不幸は交互に訪れる。
死神なんか持ち出さなくとも、飛び切りの不幸を体験した後には、飛び切りの幸運が訪れるものさ。
無理やり、納得した。

今の私なら、死神説の方を絶対取るのになあ。
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by tsado4 | 2005-10-25 08:58 | 死に関する随想
ピリカメノコって知ってる?
アイヌ語で、美しい女性という意味だ。

洞爺丸って聞いたことある?
道産子で私の年代以上なら、洞爺丸のことをほとんど知っているだろう。でも、若い人や内地の人はどうかな?私の親達は、本州・四国・九州のことを内地と呼んでいた。今はどうだろう。死語なっているのかな。
中学生の頃、北海道は朝鮮、満州などと同様に外地だったのかと不思議に、そしてちょっと不満に思っていた。

洞爺丸事故の大惨事について、ちょっとレクチャーしておこう。
1954年(昭和29年)、青函連絡船洞爺丸(3800トン)は台風によって転覆した。その事故は、岸からわずか700メートルの地点で起こったにも関わらず、日本最大の、そして、あの有名なタイタニック号に次ぐ世界第2位の海難事故になったのである。
死亡及び行方不明 1155名、生存者 わずか159名

大学は北海道から東京に出た。夏休み、冬休み、春休みと、年2、3回、旭川の実家に帰っていた。1年で4~6回、青函連絡船に乗るわけである。長い汽車(蒸気だぞ)の旅のちょうど真ん中あたりで乗るわけで、いい気分転換になり、甲板に出て潮風を受け海の眺めを堪能しているときなど、まさに旅をしている気分だった。船に乗ると不思議と旅情がかきたてられるものな。帰郷の長旅の間に途中下車して、友人と会ったり、観光旅行したりしていた。慣れてくると、値段がほとんど同じなので、北海道周遊券を買って北海道中を旅行したりしていろいろな経験をした。でも、青函連絡船は別格の存在だった。
見方によっては、青函トンネルを抜けるよりも、飛行機でいっきに飛んでしまうよりも、ずっと贅沢をしていたような気もする。

そんなわけで、青函連絡船には特別の思い入れがあり、限りなくノスタルジーを感じてしまう。
5,6年前、お台場を家族で散歩してしていたとき、船の科学館というところに洞爺丸と同型船の羊蹄丸がつながれているのを偶然見つけた。跳び上がりたい気持ちになった。長い勤めを終えて展示場となっていた。昔、何度も何度も乗った船だ。入ってみると、船内に見覚えがある。懐かしくて思わず涙が出そうになった。遠い青い頃の過去にタイム・トリップして、家族がいることも忘れてしまっていた。

小学4年の時だった。
同じクラスに高桑さんという女の子がいた。眼がパッチリして、すらっと背が高く、ツバ広の白い帽子がよく似合う可愛い子だった。
はっきり自覚はしていなかったが、憧れを抱いていたようだ。
ある日、高桑さんがおしゃまな口で皆に饒舌に語ってくれた。

高桑さんのお姉さんと当時私達のの小学校で教育実習をしていた若いハンサムな学生が恋仲であった。学生が実家のある青森に帰るというので、札幌でデートをした。お姉さんは別れ切れず、函館に、そして、青森までついて行こうとしたらしい。そして、洞爺丸の悲劇に遭い、二人共帰らぬ人となった。
というような話だったが、私はというと、高桑さんの顔を盗み見ながら、うっとりして聞いていたに違いない。
高桑さんのお姉さんだ、きっと綺麗な人だろう。ピリカメノコだ。私達の小学校は旭川のアイヌ部落の近くにあり、アイヌの民話や伝説をよく学んでいた。
高桑さんの話はピリカメノコの悲恋伝説でも聞いているような気がしていた。
ピリカメノコと若者の恋の道行き。その恋が最高に盛り上がったところで突然の悲劇。ちょっと肉付けすれば、たちまちドラマになってしまう。

死は、時折甘美な様相を呈して人々を魅了する。
「死をかけて~する」とき、人々は心打たれる。
死をかけて国や組織や家族を守ったり、死をかけて信念や思想を実行したりする行為、死をかけて情交する情死すらも、人々の心をひきつけてやまない。
ピリカメノコと若者の恋が燃え上がり、死と言う形でピリオドが打たれたのだ。
まだ恋心ということすら知らなかった10歳の私も、高桑さんの話に夢見るように引きつけられたしても不思議はない。いや、引きつけられたのは高桑さんにだったかもしれない。そうすると、これは初恋の話じゃないか。

高桑さんは眼に一杯涙をためていたような気もする。
ここまでくると、過去を、自分の初恋を、相当美化してしまっているなあ。

小学校卒業後、高桑さんとは一度も会う機会がなかった。
どんなピリカメノコに成長したか、残念ながら知らない。
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by tsado4 | 2005-10-24 12:02 | 死に関する随想
あっけなく人は亡くなるんだ。

伊豆の海は青く温かかった。
ライトブルーの美しい南の海をたくさん経験した今なら、何の感慨もなく、どうってこともない海と思うであろう。が、当時は衝撃だった。
北海道の荒々しい暗い様相の海しか知らなかった。
小学校低学年のとき、近所のガキ共でよく行った釧路の太平洋。旭川から、年に1度くらい海水浴に行った増毛の日本海。姉の家に遊びに行ったとき見た網走のオホーツク海。
皆、夏の海と言えども、冷たく暗かった。どこか人を寄せつけない、厳しさを漂わせていた。

大学に入った年の夏、大学のクラスの仲間と伊豆の戸田の海に海水浴に行くことになった。
サークルは山歩きの会に属していたが、その合宿の後だった。
確か、2泊3日だったと思う。
まだ受験が終わったばかりのようなもので、海の遊び方がわからず、浜辺でゴロゴロして漫然と太陽を浴びたり、岩場を散策したりしただけで、何もしなかったような気がする。
しかし、そこは若者。短い時間ですっかり打ち解け、仲良くなっていた。
これが海とのつきあいの始まりだった。
篠田と野呂。
社交的でリーダーシップのある野呂。その誘いかけに、物静かな篠田と田舎者で関東の地理のよくわからない私が乗った形となった。
私以外の二人は都立高校の出身だった。

3人で撮った写真が一枚残っている。
まだほっそりとした体型でにこやかに笑ってはいるが、足には普通のスリッパをつっかっけ、首にタオルをかけたり、頭にまいたりして、野暮ったいこと限りなし。湘南ボーイとは雲泥の差。私は田舎者だから仕方がないが、東京の二人もそうなのである。
なんとも海水浴とかレジャーとかいう言葉などとは縁遠い雰囲気。穏やかな海とは似合わず場違いな感じがする。女の子をナンパするなどという意識もなかった。たとえあったとしても、そっぽを向かれたろうが。

旭川へ帰って家で楽しい夏を過ごした。

夏休みも終わり、2学期の最初の授業だった。野呂がただならぬ興奮した表情で近づいてきた。
「篠田が死んだ。俺、葬式に出てきた」
「えっ」絶句した。
心臓の疾患であっという間に急逝したそうだ。
そんなことがあっていいのか。戸田で未来を語り合ったじゃないか。短いながらも楽しい時間を共有したではないか。
嘘だろう。人間ってなんてあっけないんだ。
心が真っ白になった。
珍しくその日一日は熱心に授業に集中した。心の空白を埋めたかったし、そうしないとなんだか篠田に悪いような気もしたのだ。
前から病気をかかえていたのかどうか、野呂もわからないとのこと。
とにかく、亡くなったのだ。認めたくない事実だった。
当然ながら、その後、篠田の姿を見ることはなかった。
功利的な学生達は薄情だ。篠田のことが話題になったのは、2,3日だけ。いつのまにか、皆、彼がいたという事実をすっかり忘れていた。私ももちろん同じだった。

篠田はナイスガイだった。
死んでしまったからそう思ったのかもしれないが、自己主張の強い、抜け目のない学友が多い中で、いつも控えめにニコニコ笑っていた。一緒にいると癒される気がした。試験前、私のサボった授業のノートを嫌な顔一つ見せず貸してくれた。ちょっとかげの薄い存在だった。篠田は自分の運命を感じとっていたのかなあ。
生きていたら、私よりもはるかに世の中の役に立つことをしただろう。
神様も気まぐれだ。
人生、これからだというとき、前途有望な若者の命を奪ってしまう。
いい加減な俺なんかを残して・・・とその時、少し思った。
この歳になると、素直に神様に感謝する。身体が不自由になったが、篠田に比べると文句なんか言えない。喜びも悲しみも良いことも悪いことも数知れず経験することができたものなあ。


「善人は早死にする」とか「天才は夭折する」とか言う。
逆じゃないのかな。早死にしたから、善い人に見えるんじゃないかな。夭折したから、天才に思っちゃうんじゃないかな。そういう言葉には、生き残った者の傲慢さと優越感が内在しているような気がするのは私だけか。
長生きした者が勝ちなのか。
理性的に考えれば、人生は長さではなく、いかに生きたか、密度だ。
でも、篠田の短い人生を思うと、そんなの屁理屈に過ぎない。

宇宙悠久の時間からみれば、人の一生なんて、一瞬も一瞬さ。
どんなに立派に生きたからといっても、篠田を忘れたようにやがては皆
忘れ去られてしまう。
我思う、故に我あり。デカルトの言葉だったっけ。
認識している己が死んでしまったら、すべてが無に帰するのか。それなら、冷酷な殺人者の人生も、生涯、人のために尽くしたヒューマニストの人生も、死ねば、まったく差はないということか。何か寂しい。というより、暗澹たる思いにとらわれて生きるって何なんだと考えてしまうよな。

人間らしく生きるには、神の存在が必要みたいだ。
「困った時の神頼み」という言葉。
普通は、人間、進退きわまったとき神様にすがりついて急場をしのぐというような、打算的なニュアンスでは使われる。
でも、私は、違った意味で理解している。
人間、歳を取ったり、絶望したりして、生きる意味を見失うときがある。そういったとき生きる意味を与えてくれ、方向を指し示してくださるのが神じゃないのかな。神頼みって、魂の救済というか、生きる意味の再構築とか、もっと高い意味で考えたい。

もう、少々死期が早まってもいい。
私は善人で死ぬことを切望する。

「惜しい人を亡くした」と、皆、言ってくれるかな。
上っ面だけの言葉でもいいさ。ハハハ。
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by tsado4 | 2005-10-23 15:06 | 死に関する随想
私の住んでいる飯田橋の駅前にギンレイ・ホールという映画館ある。
名画座系で、封切り落ちの洋画、韓国・中国の映画、話題の日本映画を上映している。
これはと思った映画を観るようにしている。
月1回くらいのペースかな。
最近、続けて「空を飛ぶ夢」と「ミリオンダラー・ベイビー」という尊厳死をテーマにした映画が上映された。

空を飛ぶ夢
スペイン映画。
海の事故で首から下の四肢が麻痺してしまい、26年間、ベッドの上で過ごしているラモン・サンペドロ。絶妙な会話をこなし、すばらしい詩も書く知的男であるが、自らの命を絶つ決断をする。
主人公は、空想で空を飛び回る。残された自由は空想の自由なのだ。
空想シーンの映像がすばらしい。
その中の犬が交尾するシーンが、何故か、印象に残っている。
街角に放し飼いの犬のいなくなっって、そういう光景を見ることもなくなった。見方によっては過激なのに、どこか懐かしく心温まる思いがした。幼少期の原風景の一つなんだな。ごく自然に性というものを目のあたりにしていた。優れた性教育だったよな。何だかどきどきし、恥ずかしくもあった。空想シーンはいろいろな映像で人間の営みを象徴的に表していたが、人間の秘め事を連想させたかっただろうか。
性なんて、ごく自然なことで隠すべきものではないのに、人間様だけはどうも歪んだ方向に進んできたようだ。

ラモン・サンペドロ、26年間、禁固刑に服しているようなもの。
それ以上だよな。さらに、身動きできないようにベッドに縛り付けられている状態か。目の前、30センチの距離が永遠の距離と言っていた。
周囲に迷惑をかけているという思いもあって、死を願う気持ちは一時の気の迷いではない。強い願望なのである。
私は、この12月、フィリピンで痛風にかかりまったく動けなくなった。マニラの病院に入院し、1週間、ベッドから移動できない体験をした。その短い期間でも精神的に耐えられず、死を考えてしまった。ましてや、ラモンの場合を思うと・・・

ミリオンダラー・ベイビー
クリント・イーストウッド監督・主演。
老トレーナーと不遇な生い立ちから30を過ぎてもボクシングに情熱を失わない女性ボクサーとの出会いと心の交流。連戦連勝でタイトルマッチに臨む。ここまでは、女性版ロッキーだ。が、その試合で相手の反則をくらい、全身麻痺になってしまう。

ボクシングを取ったら何も残らない女性ボクサーは、死を望む。
老トレーナーは生命維持装置を外し、致死量のアドレナリンを注射し、姿を消す。「空を飛ぶ夢」に比べて、尊厳死にいたる過程が、荒削りで乱暴だ。
イーストウッドは、この映画をラブ・ストーリーと言っている。
深く愛しているから殺す。そんな無茶な短絡的論法、与することはできないな。絶望の中での衝動的願望。現実的には、他にするべきことはいくらでもあったのに・・・
フィクションの世界だものなあ。ドラマのエンディングしてはこんなものかなあ。

死を望む人の手助けをする。
法律的には、殺人罪。

人間としてのプライドが保てない状態になったとき、人は殺してくれと願う。
私はキリスト者のはしくれ。
神からいただいたかけがえない命を自ら捨てるなどということは許されない。自殺は認めたくないし、自らも絶対に拒む。
映画の中では、頑迷で杓子定規なカソリック司教の態度を批判的に戯画的に描いていたが、わからないこともない。

ラモン・サンペドロのような人の自殺幇助に軽々しく殺人だなどと言えない自分がいる。他にしてやれることがあるんだろうか。苦しむ他人を見て見ぬふりするのも罪だよな。
女ボクサーの場合だって、心情的には共感する部分もある。
この辺はグレーゾーンだ。
人は、立場によって、考え方も感じ方も違ってくる。
同じ人間だって、時間と共に変わってくる。
その時、その場で、深く考えて、正しいと信じたように行動するのさ。

安楽死と尊厳死、どう違うんだ。
病気で肉体的苦痛に極度に苦しむ状態にあったとき、本人は早く楽にしてくれと死を願う。家族も見ていられず、死を願う。
こういう肉体の苦痛の除去を目的とした死の手助け。これは許せる部分があるな。
一方、尊厳死は心の問題だ。これはできることなら認めたくない。
すべての方策が尽きた時の尊厳死、ウーン・・・・
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by tsado4 | 2005-10-22 16:09 | 死に関する随想
(出版社) 太田出版 1600円 
(お薦め度)***

もう、うんざりだ。
これでもかこれでもかとフィリピンの否定的側面を大衆週刊誌風に面白おかしく語り続ける。ストーリー・テーラーとしては油が乗っている。

アウトローの世界、人格のない下半身の話は、ほとんどの男達は嫌いではない。そういう話に顔をしかめるような奴は偽善者っぽく嘘っぽく、私とは違う人種である。面と向かっても5分と話がもたないだろう。
でも、そういう私を惹き付ける下世話な話も際限なく語られると、私といえども辟易する。

確かに、フィリピンに何の後ろ盾もなく定住している日本人に胡散臭い人が多いのは百も承知だ。そうしないと生きていけない現実もあるんだろう。元新宿ボーイの私はそういう人達になんの抵抗感もないし、同じ匂いを感じてしまう。
胡散臭いと言えば、大企業の駐在員だって同じじゃないか。企業の本質を考えればやっていることにたいした差はない。自分達は、手を汚していない、一段高いところにいると勘違いしている脳タリンも多い。何をか言わんやだ。

私はそういう日本資本主義帝国の先兵達とあまり関わりたくない。向こうはもっと関わりたくないだろうけれど。会社のの仕事の虫達と、隠居生活を静かに受け入れようとしている私とでは、意識が全然違うし、共感し合う接点なんかない。
ちっぽけなエリート意識とつまらない虚栄心を懐に自己保身と出世に汲汲としているサラリーマンの輩などは日本であきあきしていたのに、フィリピンに来てまでイライラしながら付き合うことはない。

これからフィリピンに定住を志したり、ロングステイを考えている人はこの本を一読することは意味がある。
フィリピンの負の部分を認識し甘い気持ちを幾分かでも払拭できるというか、フィリピンに住む心構えのようなものが幾分かでも獲得できるかもしれないというか・・・
かといって、あまり気にし過ぎてもいけないね。売らんかなということで、誇張して書かれていることも確かなのだから。

この本を要約すると「毒も適当な量飲めば薬になることも多い」というところかな。
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by tsado4 | 2005-10-01 07:25 | フィリピン関係の本の書評