日頃それとなく感じている思いをそこはかとなく書きつくる雑記帳というか、駄文集というか、落書き帳というか・・・


by tsado4

カテゴリ:死を考える( 1 )

死を考える

このテーマ、重すぎるかな。
でも、構えることなく、今思ってること考えていることを、毎日、少しずつ、書き綴ってみよう。
どっちみち、雑文・駄文集、落書き帳という位置づけなんだから。
書くことで整理できるってこともあるしね。いや、大いにあるね。

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児童期、少年期には、死について考えるだけでも、胸の奥が張り裂けるようで、その場にいたたまれず大声を出したい衝動にかられた。本能的に怖かった。

はっきりと、死というものについて意識して考えるようになったのは何時のころからだったろうか。
確か小学5年か6年の頃だったと思う。同じクラスの木村君という大柄で、大人びた子に「人間は、誰でもいつか必ず死ぬ。永遠に生きることはできない」というようなことを言われ、それまではそんなことを考えたことも無かった幼稚で奥手の私は、ひどいショックを受けたのを記憶している。
永遠に生きることはできず、いつかは必ずやってくる死。受け入れられない。何とか死なずに済ますことはできないものか、夢想していたような気がする。

高校の頃、今度は逆に「人間に与えらる最大の刑罰、苦しみは永遠に生きることを科されることである」というような内容を何かで読み、わかったような気もしていた。実際は何にもわかっていなかったのに。でも、とにかく、死は本能的に怖かった。やはり、心の奥がキューンと絞めつけられるような恐怖。
青年期も壮年期も、努めて、死というものを考えないように考えないようにして、逃げ回っていた。真正面から考えることはなかった。

大学時代は、一応、理系の学生であり、唯物論的な考え方(弁証法的唯物論かな、ハハ)しかできなかった。「人間、死んだら、どうなるか」「虚無である。何にも無い」といったような、青臭い議論を知ったかぶって交わしていた。
死んだら、何にも無い?暗黒の世界?その暗黒であることすらも意識できない。怖い。じゃあ、生きているうちに、せいぜい楽しまなくちゃ。刹那主義的な享楽主義的な生き方をするようになっていた。何も信じられない。何か絶対的なものがほしかった。
寮に入っていたのだが、夜遅くまで、お題目(?)を唱えている創価学会員の友人を半分馬鹿にし、半分羨ましくもあった。よりどころをつかもうと、いろいろなものに手もだした。
俺は、何にも支配されないアナキストだなんて、いきがってもいた。
ハハハ、馬鹿だねえ。

よく、一人で、旅をするようになった。当時は気軽に海外へ行ける時代ではなかったので、国内だったが。そのうち、南の島にはまってしまった。
自然(海)と対峙しているときだけは、不思議と心が休まった。
やっぱり、生命の起源は海なんだ。
納得した。

壮年期に入ってからも、いつかは死ぬと頭では理解しているものの、それはずっとさきのこと、まだまだ、自分には関係のないものだと思っていた。
死に損なってよれよれに生きている私にとっては、今元気にしている同年代の友人たちが羨ましい。でも、もう30年もすれば、皆、ほとんどこの世からいなくなっているんだよな。
そういうこと、忘れて生きている。それはそれで幸せなことなんだ・・・

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確かに死ぬことはこわいが、不幸に生きることの方がずっとしんどいんじゃないかな。
人間の尊厳を無くして、無意味な生を送るくらいなら、私は死んだ方がましだと思ってしまう。いわゆる「生ける屍」なんて、まっぴら御免だ。

人生を生きている物理的長さで考えたくない。
夭折はしたけれど、濃縮された人生を、普通の人の何十倍もの人生を、生きたすごい人が大勢いるよな。

現代の健康ブームも、首をかしげてしまうことが多い。
長生きするという量の方ばかりに目がいって、人生の質にあまり着目していないよね。
充実した意味のある生を送るという視点で、もっと考えるべきだよな。
アイロニーをこめて言わせてもらうと、死にたいくらい退屈でも、なんとか生きていることを志すのが、健康ブームさ。
どうしても生きてしなければならないことがあるから、健康に限りなく気をつけている人って、どのくらいの割合なのかな。

長生きしたからって、勝ち組じゃないんだぜ。
寿命はよくロウソクに譬えるられる。
ロウソクが長ければ良いってもんではない。何を照らしたかが問題なんだ。

それに、人生を勝ち負けでとらえること自体が間違っているんだよな。
例えば、人生を、マネーゲームととらえるなら、そりゃ、勝ち負けがはっきりするかもしれない。この見方が現代の支配的風潮だし、たいていの人が、程度の差はあれ、これに毒されている。私も、無意識の部分で、影響を受けて逃れられない。
しかし、人生を、マネーゲームと考えたり、権力争奪ゲームと考えたりするのは、私には、やはり愚かで、無意味なことだ。
テレビでお金持ちの生活を紹介する番組をやっていると、いらいらしてすぐ切ってしまう。嫉妬もあるんだろうけれど、それだけじゃないな。お金を絶対視する風潮、うんざりなんだ。

価値観は人それぞれだ。決め付けちゃいけないよね。
そういう考え方をする人もいてもちろんいいんだ。でも、そんな淋しい人間と、私は、つきあいたくないね。向こうも避けるって。そうだ。避けてくれればそれでお互い、ハッピーてところかな。

とすると、「ただひたすら長生き」ということに価値をおく人もいていいわけだ。百寿者になることに、生きがいを見出すってのも良いよな。私はどう転んでも無理だけど。

とにかく、人生には勝ち負けはない。
人間一人一人が、他の人に置き換えられない唯一無二の存在である。他の人と比較してはならないんだ。

そして、遅らばせながら、残り少なくなったロウソクで「何を照らす」かについて、真剣に考え始めている。本当に遅いけどね。人生終わり近くになって気がついただけで、よしとしようぜ。

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私はキリスト者だ。
自殺は絶対しない。神様からいただいた大切な命を自ら捨てることは絶対にしない。
でも、脳出血で倒れてからは、身体がつらい。頭も働かない。どこかこう生きる気力が萎えてくる。生きることにあまり執着しなくなる。私は、病気によって、このような気持ちを持つようになったが、人は皆、70になり80になり90になり、齢を経るごとに個人差はあるものの、このような状況に陥るような気がする。
自殺とは違うが、どこか「お迎えが来る」ことを待望するような心理状態になるんじゃないかな。
やがては、人は人生に疲れるんだ。そう、死は安らぎなんだ。
今は、「永遠の眠りにつく」とか「人間に対する最大の残酷な刑罰は、永遠に生きさせ続けることだ」とか言う言葉の意味が良くわかるようになった。

こういう状況に陥った人には、生きようという意欲をかきたてる何かがどうしても必要になってくる。生きる希望というか生きる動機というか。
それがなくなったとき、人は、消え入るように死んでいくのさ。「寿命がつきる」とか「天寿をまっとうする」言ってさ。
私には、今、生きる希望、動機を創り、持ち続けることが必要だ。生きることの意味をどうしても探さなくてはならない。フィリピンに住みフィリッピンを旅行してまわろうと志していることも、その一つだ。そこから新しい何かがさらに見つかるかもしれない。とにかく、私は今、かなり際どいところにいつような気がする。ここをなんとか抜け出したいものだ。


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死と本格的に向き合うようになったのは、やっぱり脳出血で倒れてからだ。

50歳を過ぎてから、死について書かれた本を読むようにはなっていた。
キューブラー・ロス「死の瞬間」、曽野綾子・デーケン「生と死を考える」、山崎章郎「病院で死ぬこと」など。ホスピスとかターミナル・ケアに関心を持つようになっていた。が、あくまでも他人事であった。

倒れたとき、夢うつつの病院のベッドで
   終に行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを
という歌が思い浮かんだ。
「とうとうやってきたか。こんな風にしてくるんだなあ」
いつ死んでもおかしくないんだという思いが実感となって、私の心に定着した。

そうなると、自然と「残された日々をどう過ごすか」が切実な問題となる。
毎日毎日を慈しんで楽しんで生きよう。一日一日が大切に思えてくる。

生活を楽しむと言ったって、享楽的生活とは全然違う。だから酒色に耽る刺激的生活なんて、今の私にはほとんど関心も無い。求めるものが根本的に違ってきている。
それじゃあ、関心がありしたいことは何?
 出会いを楽しみ、感動することだ。
 心を通じあわせることのできる人と出会う。美しい景色と出会う。そして、静かで穏やかに流れる時間の中に身を沈める。フィリピンを旅行しようという願いもこの文脈からだ。
幸せは「心の中」にあるのさ。
人を支配したり、人より多くのものを持ったりして、優越感をいだいて人と比較することで幸せを感じるなんて、貧しく卑しい心の働きじゃないかなあ。本当にしあわせだとは、とても思えない。
もう一度言おう。
幸せは、「対人関係の中に」ではなく「自分の中に」あるのさ。


平凡であること、普通であることが、すばらしいことなんだ。今は、そんな気持ちでいる。

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昔のように死ぬことは、さしてこわくなってきた。

ところで、何故、若いとき死ぬことはこわいのか。
種の保存のためにも、若いとき、本能的に死を怖がるようにできているんだよな。
若い人間が簡単に死を選ぶようだとすぐに種が絶滅してしまう。
ところが、ある年齢(子を産む必要がなくなる年齢)に達するとさしてこわくなくなってくるんじゃないかな。
DNAにプログラムとして埋め込まれているんだよな。

じゃあ、誰がそのプログラムをくんだのか。
ここにくると、神としかいえなくなってしまう私がいる。
やっぱり、神の存在を信じますよ。
神なんかいないという無神論者のあなた、誰がプログラムを組んだのか、私にわかるように説明してくださいな。


歳をとってある程度覚悟するようになっても、やはり死はこわい。
そこは、未知の領域だからか。知らない場所、知らない事象は、誰もがこわい。不安だ。誰にとっても、死ぬことは未知の土地にいくことなんだ。その先には、何が待ち構えているかわからない。何が起こるかわからない。死ぬことは冒険なんだ。本当に未知の世界に旅立つんだ。
どうだい、楽しくならないかい。死ぬことはアドベンチャーなんだ。
私は、死に際にこう言いたいなあ。
「これから、冒険に出かける。ワクワクするねえ」

よく臨死体験で、三途の川を渡らずに引き返してきたとかなんとか読む。どうしても、胡散臭く感じてしまう。
三途の川とか針の山とか血の池とか、天国とか地獄とか、これって、皆、今、私たちが生きている世界の擬似世界なんだよな。現世の人間の認識・感覚で創り出した世界。
でも、私はこう考えたい。
死後の世界って、今の世界の認識・感覚で捉えられない全く異次元の世界なんだ。だから、死後の世界は、今生きてる私たちには想像すらできない。

若い時は「死んだら何もない、虚無だ」と思い込んでいた。でも、これって、根拠が無いんだよな。そう考えるのが、科学的態度だと信じ込んでいた。
でも、科学的態度って何だ。現代の科学の最先端の理論、科学的真理だって、後、何百年かたてば、当時の人たちはこんな風に考えていたのかと、お笑い種になっているかもしれないんだよな。人類の歴史の中で、まだまだ、コペルニクス的転換は、あるだろうさ。人類自体が一人の人間と同じように、有限であり終わりがある。人類の歴史なんて、地球の歴史からしたら一瞬なんだ。カゲロウのような存在なんだ。ましてや、宇宙の歴史からしたら・・・

死後の世界が「存在する」と思うのも、「何もない」と思うのも、どっちもどっちだ。誰も実証できないんだから。その人がどう思うかでいいんじゃないかな。
私は「存在する」と考える。その方が楽しいから。

でも、肉体は腐敗したり焼却されたりして、無くなってしまうのは確かだよな。何にも無くなるんじゃないか。
こういう風に考えよう。私たちの身体は腐敗し焼却されて、その細胞は分子となり原子となり、自然に還り、自然界の一部となる。
自然界と合一すること、それが神の元に行くことなんだ。

そう、死ぬことは何にもこわいことじゃないんだ。自分を完成させること、宇宙と一体になり一段と高いサムシングに昇華することなのさ。

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ところで、人は、何故、墓をつくるんだ。
亡くなった愛猫の死を悲しんでささやかな墓を作るというブリミティブな次元だったら、それはそれで好ましいんだけど、なんだか人間様の場合は違うよな。
一族の名声を誇ったり権勢をしめしたり、周りと同じにしないと世間に顔向けできないと考えたり、どうやら、生きている者のために作っているような気がする。葬儀も然り。
立派な墓に葬られるのも、山の中で野ざらしになるのも、私にとっては同じこと。むしろ、野ざらしになる方が「自然に還る」という意味では、望ましいし、正しい。
葬式産業の世話には、できるだけならないでくれ。墓なんかに金をかけるなよ。
マニラのパシグ・リバーにドザエモンになって浮いて、そのうち、魚に食べられてもいいんだぜ。うーん、やっぱり嫌だなあ。

死ぬこととは、自然に還ること、自然・宇宙と一体化することなんだ。私の身体を構成していた原始分子が、炭素などの元素となって、自然の中に拡散していくことなんだ。
遺灰を海に散布するのが、理想だな。熱帯雨林でも良い。エジプトの王やレーニンのようにミイラになるなんて最悪だ。

 妻への遺言
愛するカアチャン、俺は、墓なんかいらない。葬式もいらない。それでは気がすまないというなら、神父様に祈っていただいて、その後は、俺の死を本当に悲しんでくれる奴だけで、飲んで食べてにぎやかに楽しくやってくれ。俺の悪口を、恨みつらみをさんざん言っていいよ。

お願いだから、コツツボなんかに入れて、暗い地下なんかに閉じ込めないでくれ。
俺が死んだら、遺体をさらさらの灰になるまで焼却して(ウェルダンだよ)、その遺灰を、子供たちとの思い出の地、セブか、ボラカイか、エル・ニドの夕陽の傾く美しい海に、撒いてくれ。俺の墓は大自然だよ。

墓が無いことに抵抗があり、俺のこと、少しでもいとしく思えたら、きれいな小瓶(香辛料なんか入ってた小瓶でいいよ)に俺の遺灰をつめて持っててくれよ。かわいいリボンなんか結んでさ。「世界の中心で愛を叫ぶ」の真似だって。いいの、いいの。俺がロマンチストでミーハーだって、よく知っているだろ。
あるいは、これもテレビで見たんだけど、灰をペンダントにつめて首にかけててくれよ。粘土に混ぜて焼いて、陶器の十字架にしても良いよ。しっかり守ってやるからな。

なるべく頑張って、生きるつもりだけど、何時、神様のお呼びがあってもいいように覚悟だけはしているよ。

この遺書が読めないって。和夏の母さんか、清太の嫁さんになっている人に読んでもらえよ。
みんなと仲良くするんだよ。ガミガミと口やかましくするなよ。
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by tsado4 | 2004-10-14 13:41 | 死を考える