日頃それとなく感じている思いをそこはかとなく書きつくる雑記帳というか、駄文集というか、落書き帳というか・・・


by tsado4

(死に関する随想 4)ピリカメノコと洞爺丸

ピリカメノコって知ってる?
アイヌ語で、美しい女性という意味だ。

洞爺丸って聞いたことある?
道産子で私の年代以上なら、洞爺丸のことをほとんど知っているだろう。でも、若い人や内地の人はどうかな?私の親達は、本州・四国・九州のことを内地と呼んでいた。今はどうだろう。死語なっているのかな。
中学生の頃、北海道は朝鮮、満州などと同様に外地だったのかと不思議に、そしてちょっと不満に思っていた。

洞爺丸事故の大惨事について、ちょっとレクチャーしておこう。
1954年(昭和29年)、青函連絡船洞爺丸(3800トン)は台風によって転覆した。その事故は、岸からわずか700メートルの地点で起こったにも関わらず、日本最大の、そして、あの有名なタイタニック号に次ぐ世界第2位の海難事故になったのである。
死亡及び行方不明 1155名、生存者 わずか159名

大学は北海道から東京に出た。夏休み、冬休み、春休みと、年2、3回、旭川の実家に帰っていた。1年で4~6回、青函連絡船に乗るわけである。長い汽車(蒸気だぞ)の旅のちょうど真ん中あたりで乗るわけで、いい気分転換になり、甲板に出て潮風を受け海の眺めを堪能しているときなど、まさに旅をしている気分だった。船に乗ると不思議と旅情がかきたてられるものな。帰郷の長旅の間に途中下車して、友人と会ったり、観光旅行したりしていた。慣れてくると、値段がほとんど同じなので、北海道周遊券を買って北海道中を旅行したりしていろいろな経験をした。でも、青函連絡船は別格の存在だった。
見方によっては、青函トンネルを抜けるよりも、飛行機でいっきに飛んでしまうよりも、ずっと贅沢をしていたような気もする。

そんなわけで、青函連絡船には特別の思い入れがあり、限りなくノスタルジーを感じてしまう。
5,6年前、お台場を家族で散歩してしていたとき、船の科学館というところに洞爺丸と同型船の羊蹄丸がつながれているのを偶然見つけた。跳び上がりたい気持ちになった。長い勤めを終えて展示場となっていた。昔、何度も何度も乗った船だ。入ってみると、船内に見覚えがある。懐かしくて思わず涙が出そうになった。遠い青い頃の過去にタイム・トリップして、家族がいることも忘れてしまっていた。

小学4年の時だった。
同じクラスに高桑さんという女の子がいた。眼がパッチリして、すらっと背が高く、ツバ広の白い帽子がよく似合う可愛い子だった。
はっきり自覚はしていなかったが、憧れを抱いていたようだ。
ある日、高桑さんがおしゃまな口で皆に饒舌に語ってくれた。

高桑さんのお姉さんと当時私達のの小学校で教育実習をしていた若いハンサムな学生が恋仲であった。学生が実家のある青森に帰るというので、札幌でデートをした。お姉さんは別れ切れず、函館に、そして、青森までついて行こうとしたらしい。そして、洞爺丸の悲劇に遭い、二人共帰らぬ人となった。
というような話だったが、私はというと、高桑さんの顔を盗み見ながら、うっとりして聞いていたに違いない。
高桑さんのお姉さんだ、きっと綺麗な人だろう。ピリカメノコだ。私達の小学校は旭川のアイヌ部落の近くにあり、アイヌの民話や伝説をよく学んでいた。
高桑さんの話はピリカメノコの悲恋伝説でも聞いているような気がしていた。
ピリカメノコと若者の恋の道行き。その恋が最高に盛り上がったところで突然の悲劇。ちょっと肉付けすれば、たちまちドラマになってしまう。

死は、時折甘美な様相を呈して人々を魅了する。
「死をかけて~する」とき、人々は心打たれる。
死をかけて国や組織や家族を守ったり、死をかけて信念や思想を実行したりする行為、死をかけて情交する情死すらも、人々の心をひきつけてやまない。
ピリカメノコと若者の恋が燃え上がり、死と言う形でピリオドが打たれたのだ。
まだ恋心ということすら知らなかった10歳の私も、高桑さんの話に夢見るように引きつけられたしても不思議はない。いや、引きつけられたのは高桑さんにだったかもしれない。そうすると、これは初恋の話じゃないか。

高桑さんは眼に一杯涙をためていたような気もする。
ここまでくると、過去を、自分の初恋を、相当美化してしまっているなあ。

小学校卒業後、高桑さんとは一度も会う機会がなかった。
どんなピリカメノコに成長したか、残念ながら知らない。
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by tsado4 | 2005-10-24 12:02 | 死に関する随想